資料コーナー

「女性映画監督の今〜男性の意識にない同時代の女性たちを〜」
(中日新聞 2008年12月18日)
 今年6月に埼玉県鶴ヶ島市で、8月に兵庫県神戸市で「映画監督・浜野佐知の仕事」(鶴ヶ島市)、「映画監督・浜野佐知の全貌」(神戸アートビレッジセンター)とそれぞれ銘打った特集上映が組まれた。どちらも私の劇映画3本「第七官界彷徨−尾崎翠を探して」(1998)、「百合祭」(2001)、「こほろぎ嬢」(2006)の上映とトークで構成されたが、神戸アートビレッジセンターでは、私が過去40年に亘って撮り続けてきたピンク映画も2本上映された。
 日本の女性監督に限って言えば、こうした特集上映は非常に珍しい事だといえる。
 私は、1971年に監督になってから現在まで300本を超えるピンク映画と3本の一般映画を撮ってきた。たった3本の一般映画ではあるが、女性監督としては多い方なのだ。未だに劇映画の最多本数を撮ったといわれる田中絹代監督の6本を誰も超えられていない。
 私が監督になった1970年代は、全くと言っていいほど映画の現場に女性の姿はなかったが、ここ数年は男の力仕事といわれた撮影部や照明部にも女性スタッフが増え、女性監督が飛躍的に登場して高い評価を受けた作品も少なくない。
 私を含めて5人の女性監督が紹介されたNHKのETV特集「愛と生を撮る〜女性監督は今〜」というドキュメンタリー番組も2007年12月に放映され、日本の女性監督の未来は極めて明るいように見える。
だが、果たして本当にそうなのだろうか。
昨年度に公開された日本映画の中で、女性監督が占める割合はわずか7%にしか過ぎない。数で言っても10パーセントには満たないだろう(日本映画監督協会の会員数は男性監督約600名に対して、女性監督は25名程度)。これでは、日本映画界のホモソーシャルな結束を跳ね返す力にはなり得ない。
更に、昨今の女性監督ブームの裏には、「女性映画監督」をも商品の一部として売る男性プロデューサーたちの戦略も少なくない。
また、若い女性監督たちの中からも、「女性」映画監督とことさらに女性を強調されたくない、という声も出てきた。
今や「女性」という言葉では一括りに出来ない状況なのだが、映画評論家の故・石原郁子さんは、『女性映画監督の恋』(01年、芳賀書店刊)で、「日本には、同時代の大人の女性を描いた劇映画がほとんど存在しない。日本にはジェンダーに疑問を提出する商業映画がほとんど存在しない。日本にはセクシュアリティの個性を扱った劇映画もほとんどない」と書いている。
女性監督ブームと言われながら、これらの指摘に関して7年後の今、どれだけ変わったというのだろうか。ほとんど変わってはいないのだ。
一部で女性監督による果敢な試みもある一方、男性プロデューサーの思惑の中で誕生していく女性映画も多い。
しかし、石原郁子はまた、こうも指摘している。「女性監督は、男性監督の視点からは抜け落ちた“固有の問題”を抱え込んでおり、それは背負わされた困難であると同時に“枠を破る原動力”ともなり得る」と。
私は目下、平安寿子さんの小説『あなたがパラダイス』(朝日新聞社刊)を原作として、メノポーズ(更年期)をテーマにした映画を撮ろうと努力している。  
これもまた「男性固有の問題」意識にはまったくヒットしないテーマであり、私の前には制作資金の大きな壁が立ちふさがっている。しかし、困難は承知の上で、私は、ジェンダーやセクシュアリティのタブーに触れつつ、同時代の大人の女性たちを描きたい、と心の底から願うのだ。
私は今年還暦を迎えた。還暦女がどこまでこの社会に逆襲を挑めるか、実のところ、私も楽しみにしているのである。

映画監督・浜野佐知

「今、この社会で女が映画を作ること」(『月刊百科』05年2月号)
 一本の映画を作ることで、人生が変わる。作った一本の映画によって、自分が変わる。映画監督である私が経験してきたのは、まさしくそういうことだった。
 一世紀ほどの映画の歴史のごく初期には、欧米では女性監督も男と同じように活躍した。しかし、映画が大規模な産業となるにつれ、監督やプロデューサーは男の独壇場となった。近年、日本でも映画学校が増えて、女性監督への道も開けたが、私が監督を志した一九七十年前後には「女になれない職業」の代表的なひとつだった。
 当時、映画会社の演出部の採用条件は「大卒・男子」で、「女子」が映画の世界に入るには、スクリプター(記録)や結髪(ヘアメイク)などの搦め手しかなかった。もちろん女優という王道もあり、まれに女優から監督になる例もあるが、私がやりたかったのは監督という仕事だった。高校の頃から映画に耽溺したが、どうしても不可解なことがあった。女の描き方が変なのだ。自分の周りの女たちを見ても絶対存在しないような、母性に満ちた母であったり、夫を立てる優しい妻であったり、不幸でフシダラな娼婦だったりするスクリーンのなかの女たち。こんな男に都合のいい女ばっかりいるわけない!
 映画の監督は男ばかりで、自分が監督になったら、男には撮れない映画を撮るぞ、と意気込んだら、入り口であっさりシャットアウトされた。諦めない私が何とか潜り込めたのが、ピンク映画だった。生まれて十年にも満たない若い業界で、女である私を受け入れてくれた唯一の「映画界」。女の描き方からいえば「性」が百パーセント男の幻想によって描かれ、私が不満を持った一般映画が聖人に見えるぐらいだったが、選択肢は監督修行の道を選ぶか、すべて断念するか、どちらかひとつ。ならば、私はこのピンク映画という場で、男の性幻想をブチ壊し、性を主体的に行動する女を描こう! 女優以外に女のいない現場で苦労もしたが、二十二歳で監督デビューできたのもマイナーなジャンルだったからだ。
 以来三十年間で三百本ぐらいのピンク映画を撮ったが、五十歳を目前に一般映画を自主製作する決意を固めた。きっかけは、東京国際女性映画祭の記者会見で「日本の女性監督で劇映画の最多本数を撮ったのは、田中絹代監督の六本」という公式発表を聞き、私の三百本は日本映画の歴史にまったくカウントされないことを改めて知らされたからだ。
 現在、製作・監督作品として『第七官界彷徨‐尾崎翠を探して』(九十八年)と『百合祭』(〇一年)がある。前者は、異端の作家尾崎翠の知られざる後半生と、代表作「第七官界彷徨」を映画化した。後者は、映画だけでなく社会的にもタブーである高齢女性のセクシュアリティをテーマにした。軽快なコメディながら、老女同士のレズビアニズムにまで発展するストーリー展開に、上映会場では唖然としたり、激怒する男性が続出した。商業映画としては、二作品とも明らかに外れていたが、誰にも媚びずに撮りたいように撮った。
 当初、孤立無援に近かった私だが、思いがけないことに多くの女性たちがバックアップしてくれた。映画の世界だけでなく、女性学の研究者や各地の女性センター(男女共同参画センター)の担当者たちだ。上映会場では、私のキャリアに興味を持ち、自らのセクシュアリティについて語る多くの女性たちと出会った。また、二十カ国を超える海外の国際映画祭、女性映画祭、レズビアン&ゲイ映画祭が招いてくれた。世界では実に多彩な映画が生み出されているように見えて、実際に流通しているのは、ひどく偏った作品ばかりであることを実感した。男の監督にとっては無意識の前提である「男印」が付いているのだ。
 これは逆に言えば、女の監督にとって従来の「映画」の枠を超えたテーマや感覚を描くチャンスでもある。映画作品にとって監督が男であろうが女であろうが、良い映画は良い、という言い方があるが、私はそうは思わない。あらゆる作品には、監督のジェンダーやセクシュアリティに対する意識(無意識も含め)や感覚のバイアスがかかっている。
 映画は男の世界か? 私は三十五年の監督人生をかけて答える。否だ。今、この社会で女が映画作ることの意味と可能性について、私は初めての著書『女が映画を作るとき』(平凡社新書)で考えた。これを折り返し点として、私の映画人生はまだまだ続く。

「尾崎翠を探して」(新装版「全集 現代文学の発見」第6巻・月報)
『尾崎翠を探して』
浜野佐知(映画監督)
 私が尾崎翠の作品と出会ったのは、時間つぶしに立ち寄った立川の書店だった。
 歯抜けて並んだちくまの文庫の日本文学全集の中に、たった一冊だけ"尾崎翠"と言う女性作家の名があった。
 私はそれまで、尾崎翠の名前は知っていたが、あまり読む気になれないでいた。
 1989年に確かNHKだったと思うが、現代の女性を主人公に、30歳を前に揺れる女心と『第七官界彷徨』、それに尾崎翠の人生をクロスさせたドラマがあり、田中裕子が演じた尾崎翠像があまりにも"不幸"で"儚い"、そして男の足にすがりつくような女性に描かれていて、私をがっかりさせたからだ。 
 しかし、それから8年が過ぎ、初の一般映画となる自主制作作品の企画を探していた私は、後に『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』の脚本を担当する山崎邦紀から、再び"尾崎翠"の名を聞いたのだった。
「尾崎翠は、変で、おかしくて、いいよ。誰も映画化を思いつかないような作品だけど」
 私は尾崎翠を読んで見る気になった。そして、立川の書店で買った一冊の文庫本は、私の人生を変えた。
 『第七官界彷徨』を読み進むにつれて、私に不思議な事が起こった。その作品から立ち昇る"匂い"が私を包み、そして、私の脳裏には、溢れるように映像が沸き上がって来たのだ。それは、モノクロームの画面に、蘚の緑、肥やしの茶、女の子の髪の赤、と一点だけ鮮やかに色がついた不思議な映像だった。そして、それらが命を持って私の頭の中で動き出したとき、私は、迷わず映画化を決意していた。
 最初の尾崎翠全集を出した創樹社の玉井五一編集長をはじめ、尾崎翠の作品を知る全ての人が映像化は難しい、と危うんだが、私には自信があった。原作のある作品を映画化する場合、まずシナリオを起こして、シナリオを基に映像を考えていくのが通常の手段だ。しかし、尾崎翠の作品は違った。いきなり私に映像を見せてくれたのだ。『第七官界彷徨』の映画化を望んでいたという尾崎翠が、私に向かって手を差し伸べてくれたような気さえした。誰が何と言おうと、この作品は映画になる。私はそう信じた。
 そして、私は"尾崎翠"を探し始めた。かつて見たTVドラマでの"儚い尾崎翠像"と、作品を通して私が出会った鮮烈な尾崎翠とが私の中ではどうしてもシンクロしなかったからだ。
 果たして尾崎翠は本当に不幸だったのか? 断筆してからの40年を"生ける屍"のように生き、「このまま死ぬのならむごいものだねえ」と大粒の涙を流して死んでいった薄幸の女性だったのか? 私はこの疑問を胸に、尾崎翠を世に出したと言われ、これらの真偽の明らかでないエピソードを流布した文芸&酒類評論家の稲垣真美氏に会いに行った。
 「功をなし、名をあげようとした作家が途中で断筆したんですから、幸せだったはずがないでしょう」
 「女が一生結婚出来なかった。これは不幸に決まってるじゃないですか。まあ、体格はよかったから、性欲はそうとう強かったでしょうが」
 稲垣氏の言葉に私は呆れ、そして、怒りに震えた。尾崎翠は、自らの意志で筆を折った、かも知れない。結婚出来なかったのではなく、しなかった、のではないか。
 私は叫び出しそうになった。この男から尾崎翠を解き放ち、尾崎翠という女性の真実を伝えたい。歪められた女性像ではなく、一個の人間として生き抜いた、新しい尾崎翠像を映像で描きたい。
 そう決意した私は、親族の方たちを初めとした取材を鳥取で重ね、不幸だった、と言われる鳥取での後半生が、確かに恵まれなかったであろうけれども、自らの人生を悔やむことなく、甥や姪を育てながらおおらかに生きた尾崎翠と出会う事が出来たのだった。
 1998年5月、『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』は鳥取でクランクインした。資金難や稲垣氏の執拗な妨害と闘いながらのクランクインだったが、鳥取県や鳥取の女性達、また東京在住の鳥取出身の女性達に支えられての撮影は、とても有意義なものだった。
 尾崎翠を演じた白石加代子さんの生き生きとした演技を見ながら、私は、21世紀に向かって羽ばたく尾崎翠を見ていた。
 誰にも媚びない、ただ、宇宙のどこかで微笑んでいる尾崎翠にだけは恥じない映画を作ろう。
 私の想いは尾崎翠に届いただろうか。

新装版「全集 現代文学の発見」第6巻≪黒いユーモア≫月報(學藝書林)より再録

「一変種としての、私はピンク映画監督」
(文学史を読みかえる/7『リブという≪革命≫-近代の闇をひらく』)
『一変種としての、私はピンク映画監督』
浜野佐知
 私は68年にピンク映画の業界に飛び込み、72年に監督デビューした。高卒の写真専門学校生が映画の世界に潜り込めたのは、60年代に勃興したこのジャンルのみ。23歳で監督になった後も、助監督はもちろん制作補やあらゆる現場の下働きをした。ヒドイ業界だったが、少人数の現場でヤル気があった分、達成感もあった。
 ピンク映画とロマンポルノの区別がつかない多くの読者のために解説すれば、62年ごろから出現し、60年代半ばに急速にマーケットが拡大したセックス映画がピンク映画だ。撮影所を持つメジャー5社(東映、東宝、松竹、大映、日活)とはランク違いの、弱小の独立プロダクションが低予算で製作し「ピンク小屋」と称される専門の映画館でかけられていた。メジャー5社の入社条件は「大卒・男子」で、大学ぐらいは頑張って何とかできても、女である以上、門は閉ざされている。ピンクに対し、日本のポルノ映画の代名詞のように言われる「ロマンポルノ」は、経営に行き詰まった日活が打開策としてポルノに進出したもので、72年にスタートし、88年には終息した。300万円映画の異名もあるピンク映画の10倍以上の予算をかけ、多くの若手監督を送りだした功績は大きいが、「ロマンポルノ」は、あくまでにっかつ(当時)の商標であり、ジャンルの名称ではない。
 私が最初に門を叩いた若松プロは、若松孝二監督を中心にセックスと暴力を描き、政治的にも「反体制」を旗印にしたスキャンダラスな存在だったが「映画の現場に女優以外の女は必要無い」と追っ払われた。半年通いつめて、ようやく下働きで入れてもらう事ができたが、初めて助監督として就いたロケで、私が寝ている部屋で男優と女優がセックスを始めた。驚いた私はやめるよう頼んだが、それが問題となり、監督に「お前が間違っている。だから女は困る」と責められ、私は頭に来て、現場を飛び出してしまった。
 若松プロはそれで辞め、フリーの助監督となったが、現場ではあらゆるセクハラやイジメを体験した。酔ったスタッフや男優が深夜忍んでくるのを撃退するため、包丁を抱いて眠った日々もあった。男だけの現場で、生理やトイレの問題にも頭を悩まされた。何が何でも監督になるぞ、という強い一念だけが支えだった。
 実のところ、若松プロにアタックするまで、私はピンク映画を観たことがなかった。高校時代は熊井啓監督に傾倒し、いっぱしの社会派を気取っていたが、男の監督が作る映画には絶えず釈然としなかった。どんな巨匠の作品でも、スクリーンで描かれる女たちは、自分や回りの女たちとは天地の開きのある紋切り型。これがピンク映画となると、極端に増幅され、レイプされながらモノの1分も経たないうちに喘ぎ出す。女の体は、男たちの憤懣や憎悪を叩き付けるボロ雑巾か、最後の救いを見い出す代理聖母だった。
 助監督として3年が経過した頃、監督が撮影当日に逃亡した現場のピンチヒッターを務め、その時の約束で監督デビューするというラッキーに恵まれた私は、フーテンの女の子がセックスを自らの意志で経験することで成長していく物語を撮った。女が自分からセックスに取り組む姿を描くことで、性の主客転倒を図ったのだ。主体的に欲情し、あまり反省もせず果敢に行動するヒロイン像は、その後の私の映画の基調となった。
 ただ、女優たちの意識は少し違った。71年に、にっかつが「ロマンポルノ」でポルノ映画に参入し、ピンクのスターだった白川和子や宮下順子などと専属契約を結んでブームになったことも影響しただろう。日陰のピンク映画に出演する女優たちにとっては「演技」が全てであり、脱ぐには脱ぐなりの(プライドを保護する)理由が必要だった。彼女たちにとって、男の言いなりに人形のように身体を開く女性像の方が演じやすかったのかも知れない。現場で私と衝突する事も度々だった。
 ところが80年代に入って、ビデギャルと呼ばれる一群の女の子たちとの出会いが私の映画を大きく変えた。彼女たちは言う。「ねぇ、監督、私、芝居はヘタだけどエッチなら
まかせてよ」「セックスが好き、だからピンク映画に出るの」。それまでの歴史的な男女の性の関係を軽々と飛び越えて、私が撮りたかった雄々しく(?)逞しい、セックスする女たちを生き生きと演じてくれたのだ。AVを面白いと思ったことは一度もないが、彼女たちには感謝している。
 30年近く私はピンク映画を撮り続け、作品数は300本を超えた。36才で自分の製作会社を作り、プロデューサーを兼ねたことが、監督を続ける原動力になったし、ピンクの業界に留まり続ける結果ともなった。女優の体の細部を舐めるようにドアップで撮る私の手法は、私を業界の売れっ子にしてくれたが、女に対する私のエロスの発露でもあった。その辺の認識は自分でも十分でなかったが、私と観客&ピンク映画館主の間では幸せな誤解が成立していたのではないか。私はエグイ描写で売る、多作濫作の職人派と目され、館主たちの人気を集めたが、私にとってピンク映画は男中心の性的価値観との戦いの現場でもあり、また女たちの肉体に対する視覚的な愛撫でもあった。助監督時代に女性と暮らした時期もあったが、私はどうやら女の方が好きだったらしい。
 男の監督たちが思い入れする男の心情や内面をせせら笑い、女の肉体を執拗に描くことで男性客の人気を得たのだから、皮肉なことだ。監督デビュー時は「女の撮ったピンクでは、男の観客がシラケル」と名前を変えられそうになったが(妥協の産物で、本名の「佐知子」が「佐知」になった)いつからか時代の風向きは「女の監督の方がイヤラシそう」に変化していた。どこかで男たちの野蛮なサディズムが、横着なマゾヒズムに変換したらしい。1本3〜4日で撮るピンク映画の現場は、さながらお祭り騒ぎであり、私は30年間お祭りを続けてきたのだ。
 97年の東京国際女性映画祭の記者会見で、日本の劇映画の女性監督で最多本数は、田中絹代監督の6本という公式見解を聞き、私の300本は日本の映画史にまるで存在しないことを改めて認識した。ちょうど50代を目前にして、ピンクは撮り尽くした感もあり、私が存在しないがごとく振る舞う人々に挑戦するためにも、一般映画に取り組む決意をした。そして、これを後押ししてくれたのが、思いがけずフェミニストたちだった。
 それまで、ピンク映画の女監督が、リブやフェミニストに嫌われているだろうことは容易に想像できた。君子、危うきに近寄らずで、私は自分からフェミニストと接触することはなかった。電車の中で私が女優探しのためにAV情報誌を開いていたら、隣に座った女性から「あなたのような女がいるからダメなのよ。上野千鶴子さんの本でも読みなさい!」と罵られ、口論になったこともある。映画青年的な監督が増えた業界内では、カラミが多いことで「ピンク映画をダメにした3悪人」の一人に数えられ、フェミニズムを含めた世間からは「性の商品化」の烙印を捺される。どこにも味方はなかったが、私は映画で男たちに痛棒を喰らわし、女たちのオッパイや股間を愛しく愉快に撮り続けた。
 こうしたキャリアは、私の初の一般映画の足を引っ張るだろうと覚悟したが『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』を撮りたいと名乗り出た私を強力に支援してくれたのが、女性映画とフェミニズムの先達たちだった。私がいったいどんな監督なのか、私のピンク映画を岩波ホールの試写室で高野悦子さん、羽田澄子監督、松本侑壬子さんなどが、なんと続けて3本観てくれた。私はすっかり胃が痛くなったが、女性監督としての視点と、監督としての技量は認められ、「支援する会」が結成されて、結果的に1万人を超える女性たちが、私の映画にカンパしてくれた。エロ映画と呼ばれる世界で、私なりに男たちや男の体制と戦ってきた私だが、女たちと連帯することは考えたこともなかった。電車の中のフェミニストのように、私に水をぶっかけることは予想できても、シスターフッドで手を差し伸べてくれるとは思いもよらなかった。フェミニストは度量が広いと思った。
 出来上がった映画は岩波ホールをはじめ、全国各地の女性センターや男女共同参画センターで上映された。そこで私は、私のピンク映画に興味を持つ多くの女性たちに出会った。女性客限定の私のピンク作品上映会も何度か行なわれ、予想外の客が詰めかけた。えんえんと撮り続けてきたピンク映画を女性客に見せる日が来るとはまさか思わなかったが、これが一般映画第2作、高齢女性の性愛を描いた『百合祭』につながる。70年前後に始まった私のピンク映画は、30年後に女性客と出会ったが、女性たちもまたエロスのテーマを求めていたのだ。彼女たちは、自らの言葉でセックスを語り始めた。
 ひたすら理屈なしの快楽原則でピンク映画を撮ってきた私だったが、新たな女性たちとの出会いを通じて、私は急速にエロスを包み込んだフェミニズムに傾斜した。野生の直感でやってきたことに理論を与えられた思いだったが、途端に「フェミニズムを商売にしている」「過去にどんなヒドイものを撮ってきたか知ってるか」「女は理屈で主張するのではなく、まず身をもって(男の体制に)貢献すべし」といった声が露骨に私の背中に突き刺さってきた。みんな女性の同業者たちで、どうやらこれが私にとってのバックラッシュらしい。応援してくれる女性監督も少なくないが「女同士の心地よい連帯」や「女なら分かり合える」という平板な私のスローガンは訂正を余儀なくされた。何周か遅れのランナーとしては経験しなければならないハードルなのだろう。セコク頑迷な女も多いのだ。
 商品として作り続けてきたピンク映画の中に、現在の私の主張を裏切るような駄作もまた山をなしていることは事実だが、今になって思い当たることがある。私の300本は多くのブレを含みながら、女たちとその肉体への私の欲情表現であり、男優たちは私の影武者に過ぎない。40年のピンク映画の歴史は、私という一変種を生んだのだ。
『リブという≪革命≫―近代の闇をひらく』(インパクト出版会)より再録

日本の女性監督の現在とその特殊性
日仏女性研究学会による
2000年12月1日のパリ日本文化会館での映画上映のために
石原郁子(映画評論家)
(1)現在の状況
 日本では、1985年、東京国際映画祭発足と同時に協賛企画として「カネボウ女性映画週間」が始められ、それが日本で「女性も映画をつくり得る」ことが、「例外」でなく「当然」のことと意識された最初といえる。それ以来現在までの、日本で作られた女性監督による長篇劇映画(映画館で一般公開されたもの)は、別表のとおり(なお、日本初の女性監督作品は1936年坂根田津子の『初恋』)。一覧して明らかなように、監督登録者の半数が女性であるといわれるフランスに比べてはもちろんのこと、他の国々と比べても、日本における女性監督の数は(国会議員、大臣、県知事、会社社長などの数と同じように)まだ極端に少ない。また、著しい特徴として、その数少ない女性監督が、現代の日本の女性の姿を主題とした作品を作ることは、さらに少ない。

(2)理由と歴史
 それには日本固有の歴史的な理由がある。

a・初期の日本映画は、当時日本で下層の卑しい仕事とされていた大衆芸能の範疇に入れられ、それは女性の人前での演技を原則として禁じていたため、完全に男性だけの世界だった。また、興行や製作もやくざ者の支配下にあったため、女性は近づけなかった。

b・映画が産業として巨大な利益を生むことがわかると今度は近代的な映画会社が監督を養成するようになったが、監督候補生(助監督として採用)は大学卒男子に限られた。近代的産業となっても、映画の現場はまだ荒っぽい腕力を必要とする根強い男性絶対主義社会であり、それを統治するには、大卒男子でなければならなかった。

c・さらに、TVの出現で映画の人気が落ちると、今度は日本映画は、暴力やセックスシーンなど、《一般家庭の居間では見ることができない》ものを売り物にした。そのため、経済力がなく娯楽を求めて出歩く自由もあまりない女性たちはTV、やや経済力があり知的なものを求める女性たちは日本映画を見限って洋画、男性たちは日本映画という、現在まで続く傾向がこの頃できあがった。

d・また、日本では《女性が若く、可愛らしく、男性に脅威を与えない》ことが伝統的に求められてきた。そのため、映画の主題としても、社会で活動する女性ではなく、常に不自然なほど若く可愛らしい女性がヒロインに選ばれる。また、《知性や教養や技術を持ち、男性スタッフに対して判断を下す、大人の女性》としての女性監督は、この伝統に従って当然敬遠される。


e・女性映画批評家や女性映画製作者も、上記の理由できわめて数が少ない。それも、女性映画監督が自然に出てきにくい社会の状態を作っている。男性批評家たちは《女性の視点に立った作品》を、「女はやはり自分の周囲の狭い世界しかわかっていないから、だめ」と評しがちである。また、映画にお金を出す銀行や製作会社のトップもほぼ全員が男性であるため、まれに女性監督を抜擢しても、彼らが求めるのはやはり《若く可愛い女の子》がヒロインである映画か、あるいは《女性監督にふさわしい》と男性たちが考える種類の、子供向け映画などであり、大人の女性の現実を主題とした映画には誰もお金を出さない。

(3)それでも活躍する女性監督たち
 ただし、例外的な女性監督もいる。一つは、女優が監督するもので、これは気心の知れたスタッフや映画会社の応援を受けられるため、かなり多くの例がある。現在まで日本で長篇劇映画をもっとも多く監督した記録を持つ女性は、大女優だった田中絹代(6本)。
 それ以外の《例外》は、残念ながら劇映画ではない。どうしても映画を撮りたかった女性たちは、日本では記録映画で優れた仕事をしている。もっと割のいい仕事につくチャンスのある男性たちがおき残した分野で、女性が入りやすかったためだが、女性たちは誠実に取り組み、世界的に評価される傑作を生んでいる。ただし、その多くは「男性と同じように仕事ができる」ことを証明するという姿勢で撮られ、彼女たちは女性であることを「克服」し、撮影現場では男性スタッフに女性として意識されまいとし、女性としての主題ではなく「一般的な主題」に目を向けた。そのため残念ながらこの分野で、女性の生き方を扱った傑作としては、羽田澄子の「AKIKO あるダンサーの肖像」くらいしかない。
 8ミリやビデオによる短篇や実験映画の分野でも、女性の意欲的な活躍がある。これは腕力のない女性でも男性に頼らずに機材を扱えて、経済力のない女性でも無理なく作品を作ることができるためである。「清子の場合」でシモーヌ・ド・ボーヴォワール映画祭の奨励賞を授賞した出光眞子などが、フェミニズムの視点をもって国際的に活躍している。
 現在日本で、もっとも痛快な《例外》は、ピンク映画の浜野佐知監督だ。彼女だけが、現在の日本のどの男性監督よりも多い映画を作っており、しかも現在その記録をどんどん更新しつづけている(おそらく300本近い)。ピンク映画というのは、男性の性的な欲望に応えるためのセックスシーンを多用した1時間ほどの成人向け映画で、いわゆるポルノグラフィー。だが日本では、全盛期を過ぎた映画会社が監督養成を止めたため、監督志望の優秀な若者たちがピンク映画で修業を積み、ここから「Shall We ダンス?」の周防正行など、優れた監督が輩出した。また、セックスの表現を武器として、社会の偽善的な秩序や禁忌に挑戦する意欲的な監督たちもいる。浜野は「男に選別され、その欲望に屈従する女性ではなく、自ら欲望する元気な女性のエロス」を描いて、業界屈指の人気を集めている。その実績をもとに、彼女は1998年、長篇劇映画として自ら長年あたためてきた「第七官界彷徨・尾崎翠を探して」の企画を実現した。この作品はまた、多くの女性たちのカンパなど、女性たちの応援によって作られた意義のある取り組みでもあった。

(4)若手女性監督志望者の未来について
 実は現在、ようやく日本でも女性が技術や教養を身につけて自己表現する生き方が広く認められつつあり、映画専門学校や各種映画講座などでは女性が男性より多くなっている。学生など若い映画作家志望者の登竜門である「ぴあシネマフェスティバル」の上位入賞者も、映画学校の卒業製作のコンペ受賞者も年によっては女性が男性を上回るようになった。彼女たちは、性的トラウマや家族の問題やレズビアニズムなどを、今まで男性監督たちが描かなかったような斬新なやり方で描き出す。ただし、今のところ、彼女たちに出資する製作者はほとんどなく、低予算の自主製作であるため表現に限りがあり、ほとんどが短篇で劇場にかけるチャンスもない(日本ではふつう短篇映画は映画館で上映しない)。だから女性監督の未来は決して楽ではないが、しかし、ここまで増えてきている女性監督志望者たちは、近い将来必ずある程度の成果を出さずにはおかないと思われる。

■別表:最近日本で公開された女性監督作品(長篇劇映画のみ)
作品タイトル 年 度 監 督 ジャンル・物語
ぼくらの七日間戦争2 1991 山崎博子 児童向け・夏休みの冒険
バカヤロー! 1991 渡辺えり子 婚約者の好みに合わせてダイエットする女性の欲求不満。オムニバスの一編。
地球っ子、いのちと愛のメッセージ 1993 槙坪多鶴子 児童向け・生命と地球を愛することを学ぶ。
きこぱたとん 1993 村上靖子 児童向け・伝統の風土が少女を癒す。
ウィンズ・オブ・ゴッド 1995 奈良橋陽子 特攻隊を通じて反戦を訴える。
風のかたみ 1996 高山由紀子 平安時代の貴族の愛
エコエコアザラク 1996 佐藤嗣麻子 高校ホラー
人でなしの恋 1996 松浦雅子 昭和初期の怪奇ロマン
冬の河童 1996 風間詩織 お互いに片思いする兄弟やその友人たち
デボラがライバル 1997 松浦雅子 学園物・ゲイの青年と女子大生が恋のライバルになる
萌の朱雀 1997 河瀬直美 過疎の村に生きる母と娘の恋
ユキエ 1997 松井久子 米軍人と結婚した日本女性の老い
わたしがSUKI 1998 槙坪多鶴子 高校生の性を通じて自分の大切さを教える。
落下する夕方 1998 合津直枝 恋人に捨てられた女性が新たな人間関係の中で自分を取り戻す。
第七官界彷徨・尾崎翠を探して 1998 浜野佐知 大正期の埋もれた作家の生涯とその作品世界。
老親(ろうしん) 2000 槙坪多鶴子 自分を犠牲にして夫の両親を介護することに異義申し立てする女性の物語。
LOVE/JUICE 2000 新藤風 レズビアンの少女と彼女が思いを寄せるノンケの少女との心の通い合いと揺らめき
DRUG GARDEN 2000 広田レオナ 神経症の女優と風変わりな人々
ボディドロップアスファルト 2000 和田淳子 理想の恋という幻想からの脱出
百合祭 2001 浜野佐知 老年女性たちのパワフルな性愛。恋の鞘当てを越えて。
ダンボールハウス・ガール 近日公開 松浦雅子 全財産を失ったOLがダンボールハウス生活で人生の真実を掴む
*再録:2001年8月20日

【いしはら・いくこ】著書に、映画関連として『アントニオーニの誘惑』『菫色の映画祭-ザ・トランス・セクシュアル・ムーヴィーズ』『異才の人 木下恵介-弱い男たちの美しさを中心に』『イースト・アジア映画の、美』『映画をとおして異国へ-ヨーロッパ/アメリカ篇』。近刊『女性映画監督の恋』(8月末)。小説として『トリロジー 月の男』『月神祭』『彩の舞人- 新羅花郎伝承』。他に編書多数。

女性監督が映画を撮る難しさ
(テーマ・資金調達・セールス) 浜野佐知
 今、日本には職業的な女性監督がとても少なく、男性監督約600名に対して20名ほどしかいません。そのなかでも長編劇映画をコンスタントに撮ることの出来る女性監督は皆無と言っていいかもしれません。なぜなら、大手映画会社のプロデユーサーがほとんど男性だからです。彼らの考え方の根本には、女性監督の作るものを「女子供の作るもの」とする、男性より下に見た考えかたがあります。特にTV局等ではその傾向は著しく、ドラマを撮りたい女性たちも“料理”や“育児”“子供番組”などを担当させられることが多いのが現実です。
 そういう状況の中で、私たち女性監督が自分の“真に撮りたいもの”を撮ろうとするとき、自身で資金を調達するしか道はありません。日本は国立の映画学校もないという映画に対しては非文化的な国ですが、それでも1つだけ文化庁から映画の制作助成があります。シナリオを応募して採用されれば最大2千万までの助成金がもらえるのですが、それも年間7〜8本に限られます。大手映画会社も応募するので、本当に狭き門ですが、私たちはこの助成に頼らざるを得ません。幸運にも私の作品は(「第七官界彷徨」「百合祭」共に)助成を得ることができました。また、他の方法としては、映画のテーマに賛同してくれた人たちが、「支援する会」を作ってカンパ運動をする、という方法もあります。「第七官界彷徨」の場合は、日本全国で1万2千人を超える女性たちから、2千万円近いカンパが集まりました。そして、カンパ運動のなかでの多くの女性たちと出会い、完成後の上映運動へと移行していく幸せな例もあります。
 映画制作には莫大な資金が必要です。実力のあるプロデューサーに頼るか、後は監督が山のような借金をして作り上げるしかありません。私は自分で映画を作る道を選んできました。その方が作品を自分のものに出来るからです。日本には映画の著作権は監督になく、制作会社またはプロデユーサーが著作権者です。監督は、自分の映画を好きな映画祭で上映する自由さえ無くなってしまうのです。
 映画の上映もまた難しい状況です。映画館は多数の観客を集められる映画を望みます。そして日本の映画事情では、「観客」とは「男性」か、「若い人たち」を想定しています。つまり、映画館で上映するためには、出演者に“アイドル”か、人気を誇る男優が必要なのです。私は、「百合祭」をセールスしようとした時、「ババアのセックスなんて誰が観たいの?」と言われました。
 私は、私の作品をキチンと女性たちに届けたい。その為には厳しい道ではありますが、自主上映を続けています。「百合祭」は今日本各地の女性センターなど、多くの女性たちの手で上映されています。観客とのデイスカッションの中で私は多くの事を学んできました。
 今、女性監督や女性映画祭など“女性”を“売り物”にするのは逆差別だ、と言われることがあります。映画には男性も女性もない、作品が全てだ、とも言われます。しかし、本当にそうでしょうか? 資金を調達することの難しさ、配給上映の困難、そこにははっきりと男同士で結びあった男社会(ホモ・ソーシャル)としての映画界があります。しかし、一方で監督が“女性”であることの優位性もあります。それは、困難を乗り越える力さえ持てば、決して男性監督の撮れないテーマ、これまで映画のテーマとは考えられなかったようなテーマを、作品にすることが出来るからです。
 商業ベースから遠く離れても、“自分の撮りたいものを撮る”勇気を女性監督たちは持っています。そして、女性監督の作品を評価し、上映し、サポートしてくれる女性映画際の存在こそが、困難を乗り越え、私たちを前へ進ませる力になる、と信じています。

「ピンク映画」から「百合祭」まで 浜野佐知
 私が映画監督になろうと決心したのは、日本映画の中の女性の描かれ方があまりにもステレオタイプだったからです。映画の中の女性たちは、“妻”、”母“、”娘“、”娼婦“のいずれかに分けられ、本来一人の女性の中にある全ての感情を分断した描き方に、非常な違和感を抱きました。男にとって都合のいい女性像ばかりです。
 なぜ? それは日本映画の作り手の側に男の監督しかいないからだ、そう気づいた私は映画監督への道を目指しましたが、監督になるための映画会社への入社条件は”大学を卒業した男子“のみ。女性には全く門が開かれていなかったのです。
 私が初めて社会の中で女性差別に出会った瞬間でした。そして、映画を学ぶ為に私が潜り込めた所がピンク映画というマイナーなジャンルだったのです。当時(1970年前後)ピンク映画は、まだ出来て10年にも満たない若い産業で、女性である私を受け入れてくれる唯一の“映画界”でした。
 私がピンク映画の世界に入って一番驚いたのは、“性”が100%男の幻想によって描かれている事でした。例えば“レイプ”が男の性的な楽しみとして描かれ、レイプされた女たちの全てが男の肉体によって性的な快感を得る、という女性には信じられない男の妄想にあふれていたのです。
 それまで日本の社会が女性に押し付けてきた性のありようは、“女は男に従うもの”でした。性の場で、“女は男によって作られ”、“男によって女になる”のが当たり前とされてきたのです。ピンク映画は、その社会通念に従って、男の作り手が男の観客に向かって、女性の性を“男に都合のいい商品”として描いたものでした。
 私は決心しました。ここでしか映画監督への道がないなら、私はピンク映画の監督になろう、そして、男の間違った性幻想を壊していこう、男に従う女ではなく、性を主体的に行動する女を描こう、そう思ったのです。
 そんな私にとって大きな壁となったのは、プロデユーサーやスタッフたちの、男性としての意識でした。人間的には尊敬できる人でも、女性が積極的に欲情する事を認めない、彼らにとって女はいつも男の欲望を受け入れる“もの”でなければならなかったのです。また、女優さんたちの側にも、セックスシーンを演じることへの抵抗感が強くありました。
 80年代に入って、日本にアダルトビデオが誕生すると、ビデギャルと呼ばれる女の子たちが大量に出現しました。彼女たちは、今までの女性たちが越えられなかった性のハードルを軽々と飛び越え、自らの性を商品化することをためらわない、という価値観の転換を図ったのです。私にとって彼女たちとの出会いはラッキーでした。イヤイヤではなく、進んでセックスを演じる彼女たちは、私が描きたかった“自ら欲情する女”を喜んで演じてくれたのです。これはもちろん、当時の日本の社会で進行していた性意識の変化を反映したものでした。女性の側からの“性の商品化”は大きな社会的問題となり、今でもそれは解決されていませんが、セックスが男性の手の中だけにあった時代は終わろうとしています。
 私は、21歳で監督になってから、30年以上にわたって300本を越えるピンク映画を撮ってきました。商業映画として、観客である男性を満足させる商品としての宿命を負いながら、女性側から見た女性を主体とする作品を撮り続けてきました。私にとってピンク映画とは“性”を女性の手に取り戻すことの出来る唯一のジャンルだったのです。
 ところが、1996年の東京国際女性映画祭の記者会見で、「日本の女性監督で最多の劇映画を撮ったのは、田中絹代監督の6本です」という公式発表がありました。私はそれを聞いて愕然としました。私の300本は日本映画の歴史に足跡すら残さない事を知らされたのです。私は私の30年を無にはしたくない。私は、初めて一般映画を撮る決心をしました。第一作は、1998年に完成させた「第七官界彷徨−尾崎翠を探して」でした。そして、第二作となるのが「百合祭」です。
 「百合祭」は、1999年の北海道新聞文学賞を受賞した、小説「百合祭」を原作としています。2000年に私はこの小説と出会ったのですが、読んだ瞬間に「これは私が撮る映画だ」と確信しました。そして、2001年に文化庁の助成金を受けて完成させる事が出来ました。ピンク映画を30年にわたって撮り続けてきた私だからこそ、撮る事の出来たテーマだと思っています。

「早大ジェンダー研究所設立記念シンポジウム」
(女性ニュース 第1315号)
 早稲田大学にジェンダー研究所(所長・小林富久子商学部教授)が出来、その第1回シンポジウム「キャリア形成とジェンダー」が開催された。日本の職場に根強い固定的ジェンダー概念の縛りに抵抗してきた男女4人がパネリスト。参加者は現役の学生たちが多かったが、パネリストたちの生き方に聞き入っていた。
 トップバッターは、映画監督の浜野佐知さん。「第七官界彷徨−尾崎翠を探して」で注目され、最近は老年女性たちのパワフルな性愛を描いて評判の「百合祭」の監督。ピンク映画出身の”カワリダネ”だ。「なぜ、私がピンク映画か。”高卒で女”に僅かに開いた監督への道はそれしかなかったから」と言う。地方の高校を出、映画を作りたくて上京したが、演出部は、大卒男子が条件。もぐりこめたのはピンク映画だけだった。「ここも想像を絶する男社会。レイプされた女性が5分もすると喘ぎ出す。こんなバカな事が、と怒りながら監督の技術だけは身につけようと決心した」。
 助監督の時、たまたま監督が逃げてしまう事件が起き、私にやらせて!と強引に監督の座につく。男に隷属しない女を描いたピンク映画を試み、30年で300本作る。
 ある年の「女性映画祭」で、女性のコーデイネーターが、日本の女性監督で一番たくさん作品を作ったのは、田中絹代さんで6本、と言うのを聞いて、「じゃ、私の300本は何だったの?と思った。ピンクが映画のうちに入らないなら、歴史に名を刻むものを作ろうと思った」。自主製作しか道がなかった。「男の中で撮り続けてきた私に全国の女性がカンパをくれた」と胸を張る。
 満田康子さんは、元。有斐閣の編集者。法律の専門出版社でアカデミズムそのものといった有斐閣で「女性学」の本を出した経緯を語る。職場結婚し家事も分担するはずだったが・・・。「子供が病気するたび、なぜ私だけが休まなければならないのと思い、夫への怒りから女性の社会的制約を考えるようになった」。
 女性問題の本を企画に出すが、「売れない」と反対される。根回し、説得。やっと企画が通る。出版した本は必ず売る!「有斐閣で本をリュックに入れ、集会などに売りに行ったのは私が最初」。実績でのみ道は開ける。
 菊住彰さんは、日経新聞記者から専業主夫を経て臨床心理士になった。新聞記者の仕事は好きだったが、10年目、共働きの妻に子供が産まれたのを機に退社。企業のキャリアプランにのる疑問もあった。職場ではみな、びっくりするだけ。子育てでは”公園デビュー”に失敗、密室の子育ては悪夢のこともあり、「男も育児ノイローゼになると実感した」と。新しい道を探し臨床心理士になる。これも女性が圧倒的に多い職だ。
 日本建設機械工業会技術課長の出浦淑枝さんは、小松製作所の研究所勤務から現職に。「技術系のよさは専門の仕事を続けられる事。成果が分かりやすく、事務系に比べ技術系の方が働き続けている」という。
 会場からの質問に答え、困難を乗り越え監督になった気持ちを浜野さんは「世の中に女がなれない職があってたまるか!と思った」。満田さんは「本の執筆者に女性が一人入るだけで本の質が変わる」。菊住さんは「男性社会は【母性】を便利に使っていた。女性の世界に【越境】してみて男性が【母性】を持っていて不思議でないと思った」。出浦さんは「これからの女性の職は専門性の確立」と。
 小林所長は「パネリストの話を”成功物語”として聞いて欲しくない。状況をどう変えていくかの論議にしていきたい」と、若い参加者たちに語っていた。

『女性と表現――映画監督として』 浜野佐知
●映画界の三つの世代
 今の日本の映画界は、大きく分けて世代的に三つに分かれているような気がします。私は今53歳ですが、私が映画界に入った1970年前後は、まさに日本の映画界はホモ・ソーシャルの世界でした。映画は男の文化であり、男の視点で男の世界を表現するのが映画だと思われていたのです。「映画は男のロマン」、「映画監督は男の仕事」と当たり前に思われていた時代に女性が映画界に入るという事は大変な事でした。当時は監督になる為には大手の映画会社(撮影所)に入社して演出部に配属され助監督から修行するしかなかったのですが、その演出部への就職条件が「大卒・男子」でした。つまり、女性には監督になる道は全く閉ざされて(拒否されて)いたのです。
 1980年代に入りますと、映画監督になりたい、映画の仕事がしたい、と望む女性たちが男社会の日本の映画界を見限って海外に出ていくようになります。アメリカやイギリス、フランスなどの映画学校に学び、作品を発表し、賞を取ったりして帰ってくる、という逆輸入の世代です。日本には今でも国立の映画学校がありません。女性が映画を学ぶ為には海外に留学するしかなかったのです。
 そして、最後の世代が、今20代から30代の若い世代です。映画離れの世代と言えるかも知れませんが、ビデオが台頭したことによって映像が身近になり、片手にビデオ、片手に感性、と言った軽やかさで自身が撮りたいものを表現して行く。そういう若い映像作家たちを”ぴあフィルムフェスティバル”などが後押しして、映画とは全く別の新しい映像表現が生まれている。私は、今の日本の映像文化はこの三つの世代に支えられている、と思っています。
●女性監督なら「家庭のこと」
 日本に女性の映画監督は本当に少ない。特に長編劇映画の監督となるとほとんど皆無と言っていいかも知れません。私の知っている限りでも5、6人位でしょうか。何故かと言いますと、先ほども言いましたが日本の映画界が男社会だからです。スポンサーもプロデユーサーも”男”の中で女性が監督になりたいと思っても、例えばテレビの場合などは特に、”女なんだから”、”料理”や”裁縫”や”子ども”の番組を作らせればいいだろう、女が家庭の中でやるような事だったら女の監督にも撮れるだろう、と言う発想がまず男側からあるわけです。これははっきりとした性差別です。もちろん、女性監督たちが選ぶテーマに”家庭”や”子ども”や”介護”等はあります。しかし、それは、決して”女だから”と押しつけられて撮るのではなく、女性の視点で捉えた新しいテーマなのです。
●なぜピンク映画を30年に300本撮った
 私は、ピンク映画といわれるジャンルで三十年間監督をしてきました。ピンク映画というのは、”男の欲望の為に女性の肉体を商品化する”、つまりセックスを扱った映画です。なぜ私が女性にとっては唾棄すべきと言ってもいいようなピンク映画を300本も撮ってきたかと言いますと、まず第一は、女性が監督になれる場所がピンク映画にしかなかった事、そして、第二に、ピンク映画というのは商品としてセックスシーンが成立さえすれば女性が主人公になれる唯一の映画だったからです。
●男性が撮る日本映画の女性像に疑問
 私は、父親が映画好きで、子どもの頃から映画を観て育ったのですが、映画、特に日本の映画を観ているうちに何か変だな、と思い始めたのです。何故か観ていて居心地が悪い、これはいったい何でなのだろう、と考えているうちに、どの映画を観ても描かれている女性像が全く同じに見える事に気がついたのです。
 つまり、”妻”、”母”、”娘”、そして”娼婦”といった役割に女性を閉じこめてしまっている。パターン化したステレオタイプの女性ばかりしか出てこない。けれど、私の周りの女性達を見てみると、そんな女性達ばかりではないわけです。ハツラツと元気な女性もいれば、ガラッパチなお母さんもいる。ハチャメチャな八百屋のおばちゃんもいる。現実の女性達がこれだけ活き活き暮らしているのに、なぜ映画の女性たちは夫が帰ってくると三つ指ついて「お帰りなさいませ」と言うような女性ばかりなのだろうか? なぜ父親の言う通りにおとなしくお嫁に行ってしまうような娘ばかりなのだろうか? 
 そう考えた時に、「ああ、そうか、日本には女性の監督がいないからなんだ、だから、男の理想の女性像を、男にとって都合のいい女性像を描いているんだ」、と気がついたのです。
●監督になろうと決意――「女だから」の壁
 女性の監督が、女性の目で見た女性像を描けば、こんなつまらない、男によって作り上げられた幻想の女性像をブチ壊す事が出来るのではないか、そう思ったのが私が映画監督になりたい、と思ったきっかけでした。それで、18歳で高校を卒業すると、映画監督を目指して東京に出てきたのですが、当時1970年前後の日本の映画界はすでに斜陽で、男ですら就職が難しかった時代に、私のような映画を学んだ事もない(学ぶ事も出来なかった)女の子が映画監督になりたい、などと言ったって誰も相手にしてくれないわけです。その理由はたった一つ、”女だから”というだけで拒否され続けたのです。
●性差別のピンク映画で技術を
 そんな私がともかくも潜り込めたのがピンク映画というジャンルでした。業界自体がまだ若く、人手が足りないという事情もあったのでしょうが、”女だから”というような差別はなく、助監督として潜り込む事が出来たのです。しかし、作っている作品は、女性蔑視、女性差別の甚だしいもので、女の性は、”男の欲望の対象となるべきモノ”扱いでした。例えばレイプが商品として描かれ、しかもレイプされた女性が何分もしないうちに気持ちよさそうに喘ぎ出す、と言った信じられないような馬鹿げた映画が垂れ流すように作られていたのです。しかし、ここで逃げ出したら監督への道はない。そう決心した私は、ともかく技術を身につける為に踏みとどまったのです。
●本当の女の性を描く――男性のセクシュアリティ観に挑戦
 けれど、逆に考えれば、こういう世界にこそ女性の監督がいなければ、延々と男たちが”女の性”を商品化したものを作り続けて行く。しかも、それは男にとってもっとも都合のいい幻想の”女の性”、”女の肉体”なのですから、これは、キチンと女性の性と真正面から向き合う女性監督が必要なのではないか、と私は思いました。ピンク映画の中で、女の目で、女のセックスを、女のセクシュアリティを描きたい。男の身勝手な性幻想から女性の性を解放し、性を女性の手に取り戻したい。と、そう考えたのです。しかし、当時はまだ女性が性の事を語るのは社会的にタブーでした。性の場では、男が主で女が従、女は受け身で当然、と考えられていました。そういう社会の中で、日本にたった一人でも映像表現で、”男のいいなりになるのではない女の性”を描ける映画監督になりたい。そう決意したのですが、当初は”女のくせに”と、女性からも男性からも後ろ指を指され、石をぶつけられました(笑)。それから、約30年間にわたって、男のくだらない性幻想を打ち壊すピンク映画を300本以上撮り続けてきたのです。
●テレビや一般映画からの誘いを断ったわけ
 30年間にはテレビや一般映画からの誘いもいくつかありました。ところが与えられる企画はすべて、”女の監督だから”という男のプロデューサーが考えた”女性監督用”の企画でした。本当に私が撮りたいもの、はまるで相手にされず、「女だから撮れるでしょう」と言われるような物ばかりでした。逆に私が撮りたい企画は、「えー?、女には無理でしょう」と言われてしまう。女にだって男と同じように撮りたいものがある。テーマがある。なのにぜんぶ”女用”という企画の中に押し込められてしまう事が私には納得がいかず、またどうしても許せない事でした。一般映画を撮る為にそんなふうに迎合しなければならないのなら、ピンク映画で自分の納得のいくものを撮っている方が私にとってはやりがいもあったし、面白かったのです。
●ピンク映画は「映画」ではないのか
 ところが、1997年に、東京国際女性映画祭の記者会見で、「日本の長編劇映画の女性監督で最多本数を撮ったのは、田中絹代監督の6本です」という発表がありました。私はこれを聞いて愕然としました。それでは、私の30年と300本はどうなるんだ? ものすごくショックでした。このままでは、日本の女性のセクシュアリティをテーマに撮り続けてきた私の作品が全くカウントもされないまま存在しない事になってしまう。私という日本の女性監督の存在と、そして私の撮り続けてきたテーマを、なんとかして映画史に刻みたい。ちょうど50歳を直前にしていて、私自身もピンク映画の中でやりたい事は全てやった、という思いもありました。女性が性を語る事をタブーとする社会に風穴を開けた自負もありました。それに何より時代がはっきり変わって、日本の女性たちが性を自分のものとして、自ら語るようになってきた。そういう時代の流れの中で私自身一つの終着点に達したような思いもあったのです。
●転機――尾崎翠との出会い
 そんな時に「尾崎翠」という一人の女性作家と出会いました。尾崎翠は、明治29年に鳥取で生まれて、昭和初期にとても少ないのですが素晴らしい小説を発表して、35歳でミグレニンという頭痛薬の中毒になってからは、故郷に戻って74歳で亡くなるまでいっさい作品を発表せず”幻の作家”と言われていた人でした。私は、尾崎翠の代表作である『第七官界彷徨』を読んだ時に、とてもショックを受けました。新しくて、斬新で、そして今まで誰も描いたことのない感覚世界がそこに広がっている。こんな女性作家が日本にいたのか、そして、なぜ、こんな素晴らしい作品と作家が忘れ去られてしまっているのか?私は疑問を持ちました。そして、尾崎翠について調べ始めたのですが、当時、稲垣眞美という男性の文芸評論家が発掘したと言われていまして、創樹社という出版社から一巻物の全集が出ていたのですが、その編者が稲垣氏でした。その解説に「尾崎翠は74歳で死ぬ時に”このまま死ぬのならむごいものだねぇ”と、大粒の涙をポロポロ流して死んでいった大変薄幸な女流作家である」と書かれていました。しかし、私は、あのきらめくような感性で書かれた作品から感じられる尾崎翠像は、稲垣氏の「35歳で断筆してから74歳で死ぬまで生ける屍のように無為に人生を送って死んでいった」ようにはとても思えなかったのです。それで、私は稲垣氏に会いに行きました。
●文芸評論家の「尾崎翠は不幸せ」に反発
 私は稲垣氏に、「どうしてあなたは尾崎翠が不幸のまま死んだと思うのですか?」と尋ねました。彼は、「作家が志半ばに筆を折ったのがから不幸に決まっているじゃないか」と言いました。また、尾崎翠は、生涯結婚をしないで生きたのですが、「女が結婚も出来なかったのだから幸せだったはずがない」と言いました。私はそれを聞いて呆れました。尾崎翠は自らの意志で書く事をやめたのかも知れない。自ら望んで結婚しない生き方を選択したのかも知れない。なぜ、そういう風には考えられないんだろう。稲垣氏が言っていることは史実に基づいたものではなく、単に稲垣という男の勝手な男論理を尾崎翠に押しつけただけじゃないのか?
 尾崎翠が生きた時代(1896年-1971年)は良妻賢母が女性の美徳とされていました。結婚前は父に、結婚後は夫に、そして老いては子ども(長男)に従う生き方を社会は女性に押しつけていました。文学の世界でも林芙美子のように自分の私生活を書き飛ばすような自然主義がもてはやされ、尾崎翠が目指した表現主義は評価されなかった。そして、日本は第二次世界大戦にむかって軍国主義の大きなうねりの中にありました。そういう時代にあって尾崎翠は、日本を、そして時代を見限り、女の役割を生きる事を拒否して、自分らしく生きようとしたのではないか、そう私は感じたのです。
●自分で尾崎翠の足跡をたずねる
 では、尾崎翠はどのように生きたのか、私は生地である鳥取に行って取材をしました。1997年でしたが、まだ尾崎翠を知っている方たちが生きていらして、その方たちから直接話しを聞くことが出来たのですが、尾崎翠が18歳の時、小学校の代用教員をしていて、みんなで「ちょうちょ、ちょうちょ」を歌おうとした。その時悪ガキたちが「そんな女の歌、歌えるかよー」と歌わなかったら、尾崎翠がその悪ガキたちの頭をゴツンと殴って、「人間には、男も女もない、歌え」とキッパリと言った。
 また、晩年老人ホームに入っていた時に職員が「あなたは有名な小説家なんですね。こんど本を見せてください」と言った時に「過去はみんな忘れました。私の本は図書館にあります。図書館に行って読んでください」と言い切った。
 こういういう尾崎翠が稲垣氏の言うような不幸な人生を歩んだはずがない。尾崎翠を世に出したというだけで、稲垣眞美は尾崎翠を私物化している。そう私は確信しました。
●自分の人生を生きた尾崎翠を映画化したくても、お金が問題
 それで、どうしても尾崎翠と代表作の『第七官界彷徨』を映画化したいと思ったのですが、日本の映画界は女性監督(の撮りたいテーマ)に製作資金を出してくれるというところはまったくありません。本当にくだらないのですが、例えば、ここに四億円の製作費の作品がある。プロデューサーたちは、何の理由もなく、「四億出すんだったら、男の監督の方が安心出来るんじゃないの。女には怖くてとても出せないよね」と言うわけです。その監督が何を撮りたいのか、はまるでおかまいなしで、男か女か、だけの厳然たる差別があるのです。だから、私が尾崎翠を撮りたいと思っても、全くお金を出してくれるところは無かった。女で、しかも、一般映画を1本も撮った事のないピンク映画の監督ですから、もう皆無でした。
●女性が女性の監督を支援して映画ができる
 ところが、私にとってラッキーだったのは、その頃『映画を作った女たち』という本を執筆するために世界の女性映画監督を取材中だった映画評論家で当時共同通信のジャーナリストだった松本侑壬子さんとの出会いでした。彼女は、ある日本の女性監督に「あなたは女性監督の味方をしているけど、日本には浜野佐知という女のくせにポルノ映画を撮っているとんでもない監督がいるのよ」と言われて、それはけしからん、と私のところに取材にみえたのです。 その出会いがキッカケとなって、岩波ホールの高野悦子さんや記録映画監督の羽田澄子さんたちが私のピンク映画を観てくれ、女性の視点で性を描いている事、映画監督としての技術がしっかりある事、を認めてくださった上で、応援に立ち上がってくれました。
 そして、更にラッキーだったのは、松本侑壬子さんが尾崎翠と同じ鳥取県の出身で、鳥取の女性達に働きかけて「支援する会」を作ってくださった事でした。これをきっかけに全国の鳥取県出身の、また、尾崎翠のファンの女性達の手で草の根運動的に支援の輪が広がって行きました。そして、北海道から沖縄まで1万2千人を超える女性達が1千200万円余のカンパをしてくれたのです。
 今、こういった映画の作り方は当たり前になっていますが、女性が女性監督を応援する、というはっきりしたシスターフッドの連帯でカンパが集められて映画が完成したというのは、日本の映画界では初めてのケースだったのではないでしょうか。映画の撮影現場にも沢山の女性達がスタッフで、ボランティアで参加してくれました。
●女性スタッフとともにできた「第七官界彷徨 尾崎翠を探して」
 撮影現場で、男性よりも多い女性たちの姿を見て、私には深い感慨がありました。30年前、私が映画界に入った時は、「女は生理があるから汚い」とまで言われて拒否され差別されてきたのです。私は、30年という長い時間を、しかも、ピンク映画という全く女性の寄りつかない男社会でたった一人でやってきました。その私の現場にたくさんの女性スタッフたちがいる。「ああ、日本の映画界も変わったな」と思えた瞬間でした。そして、撮影、照明、美術、助監督、編集、本当に多くの女性達の努力と協力で出来上がった映画が『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』でした。 
 そして、この映画が、日本国内の女性センターや男女共同参画推進センターで上映され、海外では、フランス、ドイツ、アメリカ、エジプト、台湾、韓国、と世界の女性映画祭に招待され高い評価をうけました。
 1998年から上映を重ねて来ましたが、そんな中で、観てくださった女性たちが、もちろん尾崎翠への興味、作品への興味が大きいのですけれど、私のキャリアへの興味を持ってくださった方もとても多かったのです。つまり、”なぜ、女なのに、ピンク映画を撮り続けて来たか”、”女性が性を表現するという事はどういう事なのか” そういうディスカッションが各地で重ねられるようになりました。
●もとめられた中高年女性のセクシュアリティの表現
 その中で、私が感じたのは、今多くの女性たちが自分の言葉で性を語りたがっている、という事でした。今、学生の皆さんがあけすけにセックスを話題にしても誰も驚きません。今はそういう時代だからです。けれど、50歳を越えた女性たちが自分の口から性を語る、自分のセクシュアリティを語る、性を秘め事とさせられてきた世代が今、自らの手で扉を開けようとしている、そういう場に私は出会ったのです。
 「私たちにもポルノを観る権利がある」。そう言った女性がいました。「私たちが気軽に観ることの出来るピンク映画を作って欲しい」。そう言った女性もいました。そして、「浜野監督が作ってきた300本のピンク映画は男の為の映画なの?」と。
 日本の女性が変わり初めている。それが私の実感でした。
 ならば、日本の女性たちの心に届く”女性の性”をキチンと扱った映画を撮りたい。そう思い始めたのが1999年の秋でした。
●小説『百合祭』に出会う
 2000年になって、「百合祭」という小説と出会いました。1999年に北海道新聞の文学賞を受賞して、2000年に講談社から出版されてすぐ読んだのですが、読んですぐ、これは私が撮る映画だ、と確信しました。そして、これを男の監督に撮られたくない!とも思いました。
 その小説は、69歳から91歳までの世間ではお婆さんと呼ばれる年代の女性達が住むアパートに、75歳のダンディな男性が引っ越して来たことによって、それまで枯れたと思われていた老女たちがみずみずしく蘇る様子を描いたものでした。
 「年をとったっていいことなんて何もありませんよ。損ばっかりですよ」と言っていた老女たちが、まるで少女のように輝いていく。
 私は、これだ!と思いました。私が次に撮るのは、社会がフタをし、映画界がタブーとしてきた”高齢女性”の性愛をテーマにしよう。ただ、これを男の視点で撮られたら、モテて得意なお爺さんと男を奪い合って醜い修羅場を演じるおばあさんたちの話になってしまう。そうではなく、私は、いくつになっても”可愛いおばあさん像”など蹴散らして、老女たちが自ら望んで性愛を選び取る、元気で活き活きとした物語にしたい、そう思ったのです。
●「女性」監督というくくりには意味がある
 今、時代は逆行している、という危機感が私にはあります。例えば、もういいかげんに「女性監督」とか、「女性映画祭」とか「女性」という冠をつけるのはやめよう、という意見があります。「私は女性でも男性でもない。私は”映画監督”なのだ」と言って仕事をしている女性の監督もいます。映画には、女性、男性の区別はない。いい映画か悪い映画があるだけだ、という意見もあります。だけど、私はそれは違うと思うのです。絶対的に男と女は表現する場において平等ではない。とくに映画におては、企画、製作、上映の全てにおいて女性監督が男性監督と同等の立場にあるとは思われません。平等であるのなら、後は作家として勝負するだけなのだから、「女性」という冠は必要ないと思いますが、最初のスタート地点から差別がある以上、私はまだまだ女性監督の地位を男性監督と同等とする為に、「女性映画祭」が女性監督を後押しし、評価すると言った「女性」というくくりの中での頑張りは必要なのだと思っています。
●「男性」監督による日本映画の受賞作品をジェンダーの視点で見ると
 そしてまた、男性監督の作った映画を”批判する目”を観客としての女性たちは持たなければならない、とも思っています。
 30年前に日本映画に私が感じた疑問、居心地の悪さは、今も変わっていないのではないか。特に男性監督たちの作る作品に無意識に込められた女性差別に、はっきりと批判の声をあげなければならないと思います。
 例えば、北野武の『花火』は、海外で賞を受賞しましたし、マスコミも”究極の夫婦愛”などと持ち上げましたが、ラストに夫が妻を撃ち殺す場面があるのですが、銃口を向けられた妻が自分を殺そうとする夫に「ごめんね、ありがとう」と言うのです。夫(男)にとっては実に感動的な妻(女)の鏡でしょうが、女側からしたら、「ふざけんじゃねーよ、バカヤロー」となるわけです。どこの世界に殺されるのに「ごめんね、ありがとう」とお礼をいう妻がいるでしょうか? こんな当たり前のことすら男には解らない。それどころか、夫(男)は妻(女)を問答無用で殺していいんだ。つまり、妻は夫の所有物である、というメッセージがはっきりと見てとれるのです。
 また、やはりカンヌで賞をとった『うなぎ』も、映画の冒頭、いきなり不倫をした妻を夫がピストルで撃ち殺します。これも夫(男)を裏切った妻(女)は殺されても仕方がないんだ、というメッセージがあります。では、その逆は、浮気をした夫を妻が撃ち殺してもいいのか、というとそんな映画は男性監督作品の中では1本もありません。
 また、昨年の賞を総ナメにした坂本順治の『顔』は、藤山直美が主演して”新しい女性映画”と大変評判になった作品ですが、主人公が”ブス”だから”美人”の妹を殺して逃げる、という設定からして女性差別だと思うのですが、私が一番許せないのは、逃げる途中でレイプされ、妊娠し、流産した時に、「産み直してあげたかった!」と絶叫するのです。そこには、殺した妹を子宮から再生産する事によって許してもらえるはずだった、女性は”産む性”なのだという押しつけ、があります。女性にはすべからく母性がある、とする馬鹿げた男側の論理です。
 『ホタル』という映画では高倉健が妻に言います。「二人で一つの命じゃないか」と。私はそういう映画を観ると、死にそうになって「ふざけんじゃねー」と叫びそうになります。「なんで、二人で一つの命なのよ、私の命は私の命よ!」。そう思う女性はいっぱいいると思うのです。でも、それは男側には伝わらない。解らないのです。多分差別しているという意識すら無いのかも知れません。男にとって”二人で一つの命”は最高最大の女性賛美なのでしょう。”男と同化して、二人で一つの命にしていただく事が女の幸せ”と本気で思っているのです。崔洋一の『月はどっちに出ている』では、水商売に売り飛ばされた女が、男が迎えに来た途端、喜々として一緒に帰って行きます。『ぽっぽや』では、娘が死んだ日も妻が死んだ日も、駅に(しかも誰も乗り降りしない)立ち続けた男を”真の男”として称賛し、描いています。死んだのが長男だったとしても、男は駅に立ち続けたのでしょうか? 私は、このような映画を観ると胸が悪くなります。「そんな男に都合のいい女はどこにもいない!」と叫びたくなるのです。
●これからも女性の視点で作品を撮りたい
 30年前「日本映画には等身大の女性像が描かれていない」と思って、スタートした私の映画人生ですが、30年たっても全く変わらない。その間に女性監督が増えたとしても、日本映画界の本質はまるで変わっていないように感じます。
 私は、「女性監督にしか撮れないテーマ」はある、と思っています。女性の目を通してこそ、見えてくるもの。これからも、私自身の目が見つめるものにこだわった映画作りをして行きたいと思っています。しかし、映画を作るのは本当にお金がかかります。私も借金だらけになりながら、『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』と『百合祭』を自主製作しました。けれど、お金の為に身売りをするよりは、本当に作りたいものを作る為に苦労する喜びを選びます。映画が「産業」から「文化」になる時代を私たち女性映画人の手で作って行ければ、と願っています。