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2009年12月5日 西日本新聞
「女性の社会進出先駆者に聞く 女性の視点で女の性描く 映画監督浜野佐知さん」
女性の視点で女の性描く 映画監督浜野佐知さん
 映画監督の浜野佐知さんは高齢女性の性を描いた「百合祭」などの映画で知られる。60代になった今も、「信念を持って女の性を撮り続けたい」と熱い思いを抱く。

 浜野さんは映画業界が男性で占められていた1960年代に監督を志した。その道は険しく、高校卒業後に大手映画会社の演出部に就職を希望するが、採用条件は「大卒男子」。それでも夢をあきらめず、20歳でピンク映画界に飛び込んだ。撮影現場ではあらゆるセクハラやいじめが待っていた。用もないのに走らされ、胸が揺れるのをからかわれた。「酔ったスタッフや男優が深夜忍んでくるのを撃退するために、包丁を抱いて眠ったこともある」

 浜野さんは「当時はセクハラという言葉もなく、なぜこんな理不尽な扱いを受けるのか、腹は立つけど訳が分からなかった。だから『監督なんか目指す生意気な女をやめさせろ』という雰囲気の中、負けるものかという気持ちだけで頑張った」と振り返る。

 84年に会社を設立。暴力とレイプは一切撮らず、「女の欲望と性を女の目でとらえるピンク映画」(浜野さん)という異色の作品を精力的に作り、売れっ子になった。50歳の時、鳥取出身の作家尾崎翠の半生を描いた映画「第七官界彷徨(ほうこう)−尾崎翠を探して」を監督。3年後、高齢女性の性愛をテーマにした「百合祭」を製作し、伊トリノ国際女性映画祭で準グランプリを受賞するなど反響を呼んだ。

 女の性に一貫してこだわってきた。「長い間、女の性は男のために映像化されてきたが、わたしは女自身の快楽として描いていく。高齢者や同性愛者の性など、日本社会でタブー視されているものをテーマにする」

 現在、次回作の製作を目指しているが、不景気で資金集めは難航している。だが、浜野さんは「大変だが、若いときのような焦りがない」とおおらかに構えている。

2008年8月11日 神戸新聞
タブーの中にこそ宝〜視点は差別される側に〜 平松正子
 「優雅とは禁を犯すものだ」というのは、三島由紀夫の小説の主人公のせりふ。これに従えば、映画監督・浜野佐知さんほど優雅な女性はいないのではないか。女の視点でセクシュアリティー(性意識)を描いた成人映画作品は300本以上。高齢者の性、同性愛など難しい題材も手掛け、国際的評価も高い。その栄光はまさに、禁忌への飽くなき挑戦によって勝ち取ったものだ。ならばこちらも新聞記事のタブーに踏み込む覚悟で、過激で華麗な浜野監督の半生に迫ってみよう。(平松正子)

女が監督になること自体がタブーだった。
 「高校を出て上京したが、映画会社の採用条件は『大卒・男子』。いきなり門前払いを食らって、ゲリラ的なピンク映画界に飛び込んだ。そこでも『女には生理があるから神聖なカチンコは持たせない』と言われ、デビューの時も本名の『佐知子』から『子』を削られた。40年前はそんな時代だったんだよ」

現場でも苦労が。
 「用を足すのも男と並んで立ってだし、夜は"夜ばい"に備えて包丁を抱いて寝た。セクハラだとわめいても仕方ないし、監督になりたい一心で。ただ、必死で男と同じになろうとしていたことは、今思うと恥ずかしい」

どうして?
 「10歳の時に父が亡くなり、専業主婦だった母は散々苦労をした。孤独な私は映画館に入り浸り、監督を志した。フランス映画などにはさっそうと働く女性が出てくるのに、日本映画の女はどれも貞淑な妻か賢母か愛人。一個の人間として自立した女性像を描きたい。母のような不幸を終らせたい。それが出発点だったはずだから」

それで独自路線へ。
 「一般映画を撮れないうっくつからか、男性監督のピンク作品には暴力的なのが多かった。しかもレイプされた女性が、すぐにあえぎだす。あり得ないじゃない? 私は男の誤解と幻想を打ち砕くべく、主体的に欲情し、行動する女を撮った。性の主客転倒を図ったわけ」

男性客にも支持され、一躍売れっ子に。が、300本を監督した実績も映画界では認められず…。
 「1996年の東京国際女性映画祭で『日本の女性監督で最も多くの劇映画を撮ったのは田中絹代の6本だ』という発言があった。焦ったわよ。私の存在が全否定されたんだから。で、一般映画の自主製作に踏み切った」

第一作が小説家尾崎翠(1896−1971)原作の「第七官界彷徨」。
 「翠は男性研究者に『悲劇の作家』と決め付けられてきた。冗談じゃない。若くして断筆し、独身を通したのは、あくまで本人の選択。潔く孤独を生きた女性として現代によみがえらせたかった」

製作を支えたのも女性たちだった。
 「私の技量と主張が認められ、全国で約一万二千人の女性が千二百万円余りのカンパを寄せてくれた。ピンク映画の監督なんて、いわば "女の敵″。思いがけないシスターフッド(女性の連帯)の支援はうれしかったね」

一般映画の二作目「百合祭」では、高齢女性の性愛を扱った。
 「小津安二郎『東京物語』の枯れた老夫婦が、日本映画の年寄りのお手本。でも実際は、幾つになろうが恋もするしムラムラもする。むしろ生殖から解き放たれた年代こそ、自由で豊かな生と性を謳歌できるんだよ。『ババア』と呼ばれる女の手に性を取り戻そう。それが作品のメッセージ」

「百合祭」は海外38カ国、52都市で上映され、大評判に。
 「日本が遅れているのかと思っていたが、高齢女性への性別と年齢の二重差別は世界共通。反応は日本以上に熱烈で、マイナーな道を歩んできた私には忘れがたい体験だった」

打ち破るべきタブーはまだある?
 「今撮りたいのは更年期の性。それに同性愛、特にレズビアンへの認知度はまだ低いよね。映画界の最底辺で、しかも女ゆえに見下されてきた私だから、常に差別される者の視点で撮りたい。誰も触れないタブーの中にこそ、宝の山が眠ってるんじゃないかな」

ひとこと
 出演イベントのあった神戸・新開地でお会いした。一般映画に進出するとピンク時代の仕事を隠す男性監督が多い中、浜野さんはすべてさらけ出し、今も撮り続ける。「自分の育った場だし、やっぱりピンクが好き」。還暦を迎えてますますパワフル。こんなかっこいいババア(失礼!)になりたいものだ。

はまの・さち
 1948年、徳島県生まれ。71年に監督デビュー。84年には映画製作会社「旦々舎(たんたんしゃ)」を設立、成人映画を量産する。一般映画3本の評価も高く、「百合祭」でトリノ国際女性映画祭準グランプリを獲得。詩人・高良留美子創設の女性文化賞を受賞。

2008年7月17日 大分合同新聞
理想の老人像 "性"への幻想 ひっくり返す
「何歳になっても女は枯れない」
 これまでタブー視されてきた高齢者の性愛をテーマにした映画「百合祭」が大分市アイネスで、男女共同参画ウィーク中に上映された。来県した浜野佐知監督はトークショーで「"女であること" "老齢であること" という日本社会の二重の抑圧への挑戦」と、映画に込めた思いを語った。
 300本を超すピンク映画を撮ってきた浜野監督が、一般映画としては2作目に挑んだ「百合祭」。
高齢者の"性"に対する欲求をストレートに表現し、心地よく豊かに生きるために、自分で選択する"性"を提示している。
 ストーリーは69歳〜91歳までの女性が、75歳のダンディな男性の巧みな言葉やソフトタッチで舞い上がり、次々にセクシャルな関係を持つ。パートナーと死に別れ、孤独を余儀なくされた女性たちが、忘れていた体の奥の甘美な感覚を取り戻し、すっかり魅惑されていく姿を軽妙なタッチで描いている。
 2001年の発表後、世界30カ国以上で上映され高い評価を得た。当初日本では「いやらしい」「みっともない」という意識の根強さから、なかなか認められなかったが、「社会のセクシャリティー(性的なこと)に対する考え方の変化」と浜野監督が言うように2004年以降は、男女共同参画センターなどで上映され続けている。
 「日本映画がこれまで取り上げてきた理想の老人像や、男性にとって都合のいい女性という"性"への幻想を根底からひっくり返したかった」と浜野監督。「生殖という概念から解き放たれた後、"性"は生きる喜びになってもいいのではないか」と問いかけた。
 今後日本は、未曾有の高齢化社会に突入する。浜野監督は「自ら選択したエロスを楽しみ、その選択を否定しない社会が必要。年齢を理由に差別するエイジングハラスメントは若い世代の考え方が変われば違ってくるはず」と力説。「何歳になっても人は枯れないし、女も枯れないんですよ」と笑顔で結んだ。

(文化科学部・藤田恵子)

なまえのない新聞 2004年9・10月号 ほったさとこ
ヨーニ!第6回「いい奥さん、さみしい老人、さようなら。」
 東京へ映画を見に行く。ひとりで行く。一人で映画を見るのって、けっこう好きだ。見たい映画は『百合祭』。桃谷方子さんの小説『百合祭』(講談社発行)が原作。
 映画『百合祭』は、第13回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭の最終日に、青山のスパイラルホールで1回だけ上映された。前から見たくてしょうがなかったけれど、映画祭や各地の女性センター、男女共同参画推進センターなどで上映される時を狙って見るしか機会がないので、今回は待ちに待った上映だった。
 イタリアの第9回トリノ国際女性映画祭で「セコンド・プリミオ」(準グランプリ)を受賞。他にも、香港、台湾、モントリオール、ボルドー、ニューヨーク、パリ、ベルリンと、15ヶ国・38都市で上映され、海外の国際女性映画祭や大学などへ、今もたくさん招待されている。日本国内よりも映画『百合祭』を正面から評価してくれているのだ。
 『百合祭』の主人公たちは、69歳から91歳までの7人のおんなと75歳の1人のおとこ。シンプルで大切に住われてきた洋館"鞠子アパート"で老嬢ばかり暮らしている。女優は吉行和子さん、正司歌江さん、白川和子さん、中原早苗さん、原知佐子さん、大方斐紗子さん、目黒幸子さん。それぞれのキャリアを積んでこられた方々ばかり。しかし役どころは、もう社会で必要とされない、恋愛の対象にされない年齢を迎えた人たち。長い時間を連れ添った相手は既に亡くなったりして、老いていく時間をたんたんと過ごしているように見える。着ている服は地味で表情もうすく、毎日に彩りがない。
 そこへ三好さんというミッキーカーチスさん扮する粋でアヤし?いお爺さんが引っ越してきて、ご婦人がたが、みるみるうちにきれいになっていく。自分に興味がわき、お化粧をし、輝いてくる。そしてみんな三好さんを好きになる。セックスもする。そうなると同じ洋館のはじまった恋を隠せるはずがない。嫉妬や修羅場が起こらないわけがない。だけれども、主人公は平均年齢77歳と長い人生を歩んできた人たち。お互いの暮らしを大事にしながら、個々の恋愛関係を受入れ、自分のセクシュアリティーに素直になっていくのだ。人生には大変なことも多いけど、経験や年月を重ねることでうまれる余裕。その上で新たな自分を発見する。それまでの人生で引き受けてきた役割、世間や自分がつくってきた常識から自由になることの、なんとすばらしいことか。
 登場した俳優さんたちは、みな素敵だった。この映画に出ることを楽しみ、演じているようにみえた。キャリアのある方が老人のセックスを演じることに対して反対もあったようだ。だけど、役の中でセクシュアリティーを超える前に、自らのキャリアの枠をらっくらっくと乗り越えてしまった。
 監督は浜野佐知さん。ピンク映画を300本以上撮ってきており、日本の映画界の中で最も多くの本数を誇る。しかし、ピンク映画だからと日本の映画界でその功績は認められていない!。浜野監督は映画を撮りたかったが、1960年代当時は大卒の男子しかメジャーな映画会社へは入れなかったそうだ。こういう話をきくと、いまのおんなの自由さは、過去のおんなたちの根性と大変な努力によって生まれたものなんだと、ほんとうにありがたく思う。とはいえ、まだまだ差別はあって、がっくりすることは多いけれど。で、なんとかもぐりこめたのがピンク映画の世界だった。そして、数々のセクハラや嫌がらせを受けながらも、映画でほんとの女の性を表現するには、ピンクしかないんじゃないかと考える。その後1984年に映画製作会社旦々舎を設立し、1998年には『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』を自主製作。この映画は、日本芸術文化振興基金や東京女性財団の助成を受けるのと同時に日本全国から12,000人以上のおんなたちの支援を受けて完成した!
 今回『百合祭』が上映された映画祭「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」は、国内海外の作品問わず、ゲイやレズビアンというようなセクシュアル・マイノリティをテーマにした映画のおまつり。見に来ている人たちはとてもノリがよく、笑う人あり、涙する人あり、わたしもあっはあっは笑った。こういう自由な場所って貴重。大切だ?。
 映画の上映の後、Love Piece Club(おんなによるおんなのためのセックスグッズストア)代表の北原みのりさんとのトークショーがあり、大きな拍手の中で浜野監督は迎えられた。浜野監督は、おおらかで好きなように『百合祭』を楽しんでいるわたしたちを心から喜んでくれていた。だってほんとに、こんなに自由に、人生の孤独と向き合いながら、おんなが自分のセクシュアリティーを受入れていく映画を見ることができたんだから。あ?、もっとたくさんの人に『百合祭』を見てもらいたい。痛快です。しわがかっこいいです。70代の主人公に、30代のわたしは、もっと自分を解放することを教わりました。いえ〜い。

なまえのない新聞
http://amanakuni.net/Namaenonai-shinbun/index.html

2003年11月28日 朝日新聞
独りを楽しむ第二の人生        越村佳代子
 「この年になると、男が少なくなるんだもの、早く死んじゃって、さ」
 日活ロマンポルノのスター、白川和子が演じる75歳の元バーの経営者が嘆く。
 ピンク映画の女性監督として知られる浜野佐知さん(55) が01年に自主製作した「百合祭」(吉行和子主演)の一シーンである。原作は北海道新聞文学賞受賞の桃谷方子さんの同名小説(講談社文庫)。
 映画は目下、自治体の女性センターなどで上映されている。「男女共同参画や人権の観点で高齢者の性愛を考える」と名目はお堅いが、現在、近未来の自分の問題ととらえる中高年女性で会場は盛況。コミカルな味わいも受けて、これまで52カ所で約3万2千人が見た。海外の女性映画祭などにも招待され、26カ国を巡り、観客数は約2万6千人に達した。
 高齢の寡婦ばかりが住むアパートに75歳のダンディな三好さん(ミッキーカーチス)が引っ越して、巧みな褒め言葉で全員を夢中にさせる。ぬれ場で男性が機能しなくても、「柔らかくて温かくて気持ちがいい」と受けとめる、女性独特の感性が表現される。

 冒頭のセリフは実態をよく表している。7月に厚生労働省が発表した簡易生命表によれば、女性の平均寿命は85.23歳、男性は78.32歳と約7歳の開きがある。01年の国民生活基礎調査を見ても、女性は75歳を境に、死別が有配偶を上回る。75~79歳では、未婚、離婚を含め、ほぼ5人に3人は独りだ。
 9月15日、福岡市での福岡映画サークル協議会主催の上映会で浜野監督は「子育ても終り、夫もいなくなった第二の人生に、高齢だからこその自由と愛とセックスがある」と熱っぽく語った。
 会場にいた50歳代後半の女性は夫と死別し、遺族年金暮らし。やはり妻が病死した年上の男性と今、交際している。電話は「彼」からの一方通行。月に2回の逢瀬は車でホテルに直行する。このときめきを誰かに話したいが、「いい年をして」と言われるのが嫌で胸に秘めている。

 平均寿命が延びて、老年期の性がQOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)にかかわる重要な要素として注目され、90年代はジャーナリズムでも盛んに取り上げられた。
 産婦人科医やカウンセラーらが参加するセクシュアリティ研究会(代表=荒木乳根子・田園調布学園大学教授)は有配偶の中高年男女の調査(99~00年)に続いて、02年9月から単身中高年の性についてのアンケートを実施中だ。
 男性に比べ女性は調査に素直に答える。旅行や孫の世話の方が楽しいという人、寂しさを訴える人、恋をしている人と様々だという。自由記述欄には「相手は性交渉を求めるが、私は触れ合うだけでいい」「セックスがヘタでがっかり」など、恋人との性にまつわる期待や不満、不安もオープンに書かれている。
 90年にも老年期の性を調査した荒木教授は「タブー視は和らいだが、セックスが男性主導で、女性は欲求を伝えられず、満足を得られない状況はあまり変わっていない。老年期の性を豊かに楽しめるかどうかのカギは男女の性欲や性的ニーズが乖離する中高年期以降の、性を含めたコミュニケーションにある」と話している。

「安心」2002年11月号   浜野佐知
 「老人会で出会ったある男性と恋をして深い関係になりました。いい年をして恥ずかしい、と罪悪感を持っていたのですが、この映画を観て、自分もいい恋愛が出来たのだと誇らしく、嬉しくなりました」
 これは、私が撮った映画「百合祭」を観てくださった84歳の女性の感想です。彼女は戦時中、親の言いなりに顔も見たことのない男性に嫁ぎ、主婦業と育児に追われて、気がついた時には70歳を越えていたといいます。そして、夫に先立たれ、一人になって自分の人生を振り返った時、一度も恋をしたことも、性を楽しむ事もなく年老いていたと愕然としたそうです。
 また、男性からは次のような感想が寄せられています。
 「高齢者というと、周囲も本人も性欲を制御することが当たり前と思いがちだが、あるがままに、という事が大切だと思った」(73歳)
 「6年前、妻に先だたれて以来、豊かな余生を送ろうと趣味に興じていますが、やはり、人と人との関係がもっとも心豊かになりうるもの、と思いました」(57歳)
 だが、一方では、
 「女性にも性欲ってあるんでしょうか? 閉経したらなくなるんじゃないですか?」(54歳)
 と言う信じられないような質問があったように、日本社会において高齢者の性愛は、「いい年をしてみっともない」とか、「色ボケして」等の侮蔑的な言葉で否定されてきました。何故なら、定年で社会からリタイヤして男性や、閉経して子供を産めなくなった女性は、役たたずとして社会の片隅に押しやられてきました。そして、長い間「枯れたおじいさん」と「可愛いおばあさん」が理想の老人像とされてきました。特に女性は、「性」に興味を持つのははしたない事とされ、「性」の主導権は男性が握るもの、と教育されてきました。
 しかし、本当にそうでしょうか?
 女性が自ら性愛を楽しむ事は、いけない事なのでしょうか?
 年を取るという事は、全てを奪われてしまう事なのでしょうか?
 私は、そうは思いません。
 私は女性として、同じ日本の女性たちに、年をとったからといって人を好きになる気持ちや、好きな人と触れ合っていたい気持ちを諦めることはない、それどころか、年を重ねたからこそ得られる素晴らしい性愛の自由がある、という事をこの映画で伝えたかったのです。
 私は映画監督として今までに300本以上の作品を撮ってきました。そのほとんどがピンク映画です。私が監督になろうとした1970年当時、日本で女性が映画監督になれる道は皆無でした。唯一女性である私を受け入れてくれたのがピンク映画界だったのです。 私がピンク映画の世界に入って一番驚いたのは、「性」が100%男の幻想によって描かれている事でした。例えば、”レイプ”が男の性的な楽しみとして描かれ、レイプされた女性が男の肉体によって性的な快感を得る、と言う信じられないような男側からのみの妄想に溢れていました。私は、その中で男の間違った性幻想を壊し、男に従う女ではなく、性を主体的に行動する女性を描いてきました。
 ですから、高齢女性の性愛をテーマにした小説「百合祭」(講談社刊)と出会った時、これは私が撮る映画だ、と確信したのです。
 映画のストーリーは、69歳から91歳までの老女の住むアパートに75歳のダンデイな男性が越してくる事から始まるてんやわんやの恋愛騒動を描いています。
 自分たちを”おばあちゃん”扱いせず、一人の女性として接してくれる男性の登場により、生き生きと輝き始める彼女たち。
 「柔らかくて、暖かくて、気持ちいい・・・」
 これは、主人公がセックスを体験した後、女性同士で語り合う時のセリフです。このセリフの中にこそ、高齢社会の新しい性愛の可能性があるのではないでしょうか? 日本は、世界一の長寿国となり、女性の閉経後の人生は約30年と言われています。職業に定年はあっても、生きる事に定年はない、と私は思っています。
 「百合祭」の観客は圧倒的に女性が多いのですが、夫や恋人を連れて2回観にきてくださる方がたくさんいます。映画が伝えたいものを受け取って、パートナーとともに向き合おうとする彼女たち。「性」を女性が自分の問題として考え始めようとしているんだな、といううれしい実感があります。
 高齢期を生きるという事は、まさに、「性=生」なのではないでしょうか。男も女も男女の枠組みなどに縛られず、真に自由な性愛を楽しむ権利がある、のですから・・・。

NHK社会福祉セミナー 2002年7月-9月号
高齢者こそ性を謳歌しよう
これまで日本社会の中でタブーとされていた高齢者の性愛。この問題に初めて真正面から向き合った映画が『百合祭』です。
 「倫理」や「道徳」の呪縛から解き放たれ、高齢女性たちがより豊かな生と性を生きることを浜野佐知監督は提言します。
 女性の性的自立をめざしてきた監督に、高齢者の性について熱く語っていただきました。

ピンク映画を女性の視点で
 高齢女性の性愛をユーモラスに描いた映画『百合祭』が、昨夏の公開以来、全国各地で上映され、大きな反響を呼んでいる。
 21世紀、前人未踏の高齢社会を迎える日本の現実に、ズバリ「性」の角度から切り込んだ監督・浜野佐知さん。実は、彼女は、300本以上のピンク映画を女性の視点で撮り続けてきた異色の女性監督でもある。
 子どもの頃から映画好きだった浜野さんは、日本映画の中の女性の描き方に疑問を持った。どの映画も、妻、母、娘、娼婦、のカテゴリーに分けられ、女性の個性、人格そのものが浮かび上がってこない。「これは、男の監督たちが自分たちに都合のいい女性像をつくっているからだ。等身大の女性を描きたい」と監督を目指すが、どの映画会社も採用は「男子」のみ。監督への道の前には厳然たる性差別の壁が立ちはだかっていた。
 そこで、自力で技術を覚えるべくアウトサイダーの世界、ピンク映画界に飛び込んだ。映画監督・浜野佐知の誕生である。

 入ってみて、本当に驚きました。私自身、もともと女性の描き方がおかしいから映画監督になろうと思ったのに、描き方がおかしいどころじゃない。ピンク映画というのは男の欲望を満足させるための商品としての映画ですから、さらに男の都合のいい性幻想をかぶせた女性像というのが出てくるわけですよ。
 いちばん顕著な例が、レイプされても女はあえぐ、言葉は悪いけど「ツッコめば喜ぶ」摘に女をモノ扱いして、おもしろおかしく映像化している。とんでもないところに来ちゃったと、愕然としましたが、でも、ここで逃げ出したら監督への道は閉ざされてしまう。
 だったら逆に、「差別と男の思いこみの性幻想で女を描いているピンク映画というジャンルで、きちんと女の性は違うと言うことを描いていこう」と思ったんですね。
 1971年に21歳で監督デビューして以来、一貫して女性側から見た女性の性をテーマにしてきました。男に隷属するのではなく、自ら欲情する自立した女性の性を描いてきました。ラッキーだったのは、ピンク映画というのは、ある程度セックスシーンを入れて商品として成立すれば、わりと自由に話は撮らせてくれるというところがあったことですね。

高齢者の性をタブーとする社会に風穴を!
 監督になった浜野さんは独自の作品を発表していったが、年月を重ねるにつれてジレンマを感じはじめた。女性たちに、社会から押しつけられている性的役割からの解放を、と一生懸命メッセージを送っているのに、そもそもピンク映画の専門館には女性客は足を運ばない。しかも、溢れる思いのこもった浜野さんの映画も男性監督のつくった映画も、十把一からげに上映されてしまう。
 さらに、ピンク映画があくまでも男性の欲望を満たす商品である限り、スクリーンの中の女性は若く美しくなければならないという現実。デビューから35歳ぐらいまでは自分と等身大の女の考え方、生き方を時代に合わせて描いてこられた。だがこの世界、30代半ばを過ぎた女はゲテモノ扱いなのだ。
 「自分と同じ年代の性を描いてみたい。そして、高齢者の性にふたをしてしまう映画界や社会に対して、風穴を開けたい」という気持ちが浜野さんの中で大きく膨らんでいった。
 背中を押したのは、女性映画祭の公式発表の数字だった。”日本の女性監督の中で長編劇映画の最多記録は、田中絹代の6本”。「じゃあ私の300本と30年は何なのだろう」。
 ならば日本映画界に残るような作品をつくろう、女性たちに自分の想いが届くような作品を撮ろうと、1998年に、幻の作家・尾崎翠をテーマにした一般映画『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』を自主製作。この作品で浜野さんは第4回女性文化賞等、数々の賞を受賞、国内だけでなく海外でも高い評価を得た。
 続いて発表した2作目の一般映画が『百合祭』である。これは北海道在住の作家・桃谷方子さんの同名の原作(講談社刊)をもとに、後半に浜野さんのオリジナルを加えてつくった映画である。これこそ、浜野さんが長くピンク映画で直面してきた女性の性の問題を、一般映画で展開したものであるといえるだろう。
 69歳から91歳までの女性ばかりのレトロな洋館のアパート。物語は、ここに住む独り暮らしの老女の死から始まる。その後に引っ越してきた男性は、ダンデイで陽気な75歳。このプレイボーイのお爺さんにアパートの女性たちはこぞって魅了され、忘れていた性エネルギーが再燃、セクシュアルな関係を持つ。それぞれ「自分だけ」と思っていた彼の実像が明らかになったとき、女性たちは驚き怒るが、各々の目覚めた欲望に素直に、果敢に新たな生を模索しはじめるのだった。

 私のメッセージは、後半のオリジナルの部分にこそあります。私がこの映画で何を伝えたかったかというと、昔と今では平均寿命が伸びて、同じ年齢でも外見も中身もまったく違うのに、日本の性のありようはまったく変わらない。
 それは、性=生殖という大前提を社会が押しつけてきたからなんです。『百合祭』の上映会でほんとに驚いたのは、60歳くらいの男性が心底不思議そうに「女の人は生理が終わったら性欲なんてなくなるんでしょ」と大真面目に言ったんです。私は、男も女も死ぬまで性欲はなくならないと思っています。でも「性」が「生殖」というカテゴリーに入れられてしまっているから、生殖能力がなくなった年代の人たちが性からおいてけぼりにされてしまう。女は生理が終わったら女じゃなくなり、男は勃起しなくなったら男じゃなくなる、と。
 でも私は逆に、生殖から解放された年齢になったからこそ、自由に、性を謳歌できるのではないだろうか、というメッセージを映画に込めたんです。つまり、考え方の壁をどうやって越えていくか、なんですね。とにかく性にまつわる呪縛から解き放たれることが非常に大事なんじゃないかなと思うんです。自分自身の意識の中で、まず性を卑下しないということ。性は恥ずかしい事でも何でもない、人間にとってとても素敵で、素直な接触欲求だというふうに性を認識して、そういう気持ちのいい関係を共に生きていく人とどう分かち合っていくか。これは別に男と女という関係性の中だkには限らないと思うんですよ。映画の最後に女同士のセクシュアルな関係が出てきますが、男女の対幻想から解放された関係の中に新たなるセクシュアリテイが探れないだろうか、という意味もあるんです。
 また、高齢者の性は死が間近に迫っているという現実を抜きには考えられない。死がすぐそこに迫っている人たちだからこそ、「性」=「生」に直結して考えなければいけないんじゃないか、と思うんです。

老人も一個の人間。性の自己決定権を認めよう
 今まで日本の社会が押しつけてきた理想の老人像は「枯れたお爺さんと可愛いお婆ちゃん」。もしお爺さんが隣のお婆さんのお尻でも触ったりしたら、もうそれで全人格が否定されてしまう(笑)。まして、老女が性愛を要求するなど考えられもしなかった。でも、現実には、老人ホームなんかで、性にかかわるトラブルが多発しているじゃないですか。
 にもかかわらず、この問題にフタをしてきてしまったということは、私は、介護する側が一番めんどくさいところを、必要と知っていながらあえて避けて通ってきたんじゃないかなと思うんです。性にさわることの不安もあるし、性というものを人間の生活の中で非常に下に位置ずけている。私も老人ホームの職員の皆さんや、介護をする人たちに悩みを聞かされますが、彼らにとって老人は子どもと同じ、面倒をみなきゃいけない人たち、世話の対象なんです。性なんていうものは世話の対象としては非常にやりにくいから、無視しちゃう。それに、介護する側の人の性に対する考え方やセクシュアリテイがあからさまになってしまうことの恐怖もあると思うんです。でも、いくら年をとったって恋愛もするし、セックスもする。それをきちんと認めてあげないと駄目ですよね。あくまでも個人の意志を一番大切にして、そこから関係が始まらなきゃいけないと思うんです。
 「みっともない」という世間体の問題もあります。その根幹には結婚した一対の男女の間でしかセックスしちゃいけないという「一夫一婦制」の倫理観がある。だから、年をとった父親や母親が性愛の対象を見つけたときに子どもたちが「財産はどうなるんだ」とか言って、本当にそういうつまらない問題が高齢者を閉じ込めていると思うんですね。
 老人ホームまで行っていちいち結婚する必要もないし、もっと自由な性の交歓があったっていいと思う。それで、生きる張り合いが出ればいいじゃないですか。高齢者側も、セックスを自分たちが残りの人生を生きるのに必要なものなんだ、と毅然として欲しい。
 「新しいパートナーと性愛を楽しみたいという欲望を、なんで押さえ込まれなくちゃいけないんだ。別に結婚なんかしなくていいんだ。好きにやる」と言えばいいと思う。そのための環境をつくってあげるべきだと思うんですよ。そういう意味で、日本はこれからモデルのない高齢社会を生きようとしているわけで、今までのような福祉と介護一辺倒では絶対成り立たない。だからこそ、この映画が「高齢社会をよくする女性の会」などで受け入れられているのではないかと思いますよ。もうきちんと性を見直さなくてはいけない時期にきているのではないでしょうか。

 今年3月、『百合祭』はイタリアの”第9回トリノ国際女性映画祭”で準グランプリを受賞。授賞式で映画祭の委員長は、「この映画をすべてのイタリアの女性たちにありがとう」とコメントした。4月に香港国際映画祭に出品、8月にはカナダのモントリオール世界映画祭や台湾国際女性映画祭にも招待作品として出品する。いまや高齢者の性は国際的にも共通のテーマである。
 いま浜野さんは『百合祭』の製作過程の中で考えてきた一夫一婦制の問題を基盤に、『千年のセクシュアリテイ』というテーマで次回作を構想している。「日本の女性の性が変わってきた継ぎ目継ぎ目を、万葉の時代から映像にしてみたい」とさらなる飛躍を目指す。
そこにはもちろん高齢者も含め、さまざまな女性たちが登場するという。製作が待ち遠しい。でも、まずはもっと多くの人たちに『百合祭』を見て欲しいものだ。

アエラ・2001年12月17日号 坂口さゆり
嫌われる?「老女の性」
 73歳の宮野理恵さん(吉行和子)は、老女ばかりが暮らす鞠子アパートの住人。引っ越してきた75歳のプレーボーイ、三好さん(ミッキーカーチス)のある日、関係を迫られる。いつも和服姿できりりとした彼女が、抵抗するどころか恍惚とした表情を浮かべ・・・。「宮野さんは、笑顔がいいねえ。菩薩さまのようだねえ」
 69歳から91歳の7人の女性たちを主人公にした映画『百合祭』は、今まで忌避されてきた「老女の性愛」をコメデイタッチで描く。
 監督は300本以上のピンク映画を撮ってきた女性の浜野佐知さん。昨年、講談社から出された同名の小説を原作に、高齢者ならではの自由な性を追求した。
 「これまで日本で老人の性愛と言えば、谷崎潤一郎のように主役は男。高齢の男性と若い女性の”歪んだ愛”を形のしていた。世界でも老女の性を描いた映画はほとんどないと思う。タブーに風穴を開けた意識はあります」と、監督は自負する。
 あいち国際女性映画祭のデイレクター、木全純治さんも絶賛する。「老人の映画と言えば、病気や死といった老いをテーマにした作品が多い。年を重ねて男と女がどう生きるか、こんなに面白く描いた映画はないですよ」
 名古屋の映画館シネマスコーレ支配人でもある木全さんは、12月29日から1月11日まで正月ロードショーを決定した。だが。公開を決めた映画館は今のところ、ここだけ「映画館での興業は難しいと思った」という浜野監督の読みが当たってしまった。
 もともと監督の熱意で作った自主製作作品。製作費7千万円は親戚や保険会社などから借金し、現像所の支払いは分割払いだ。上映・宣伝費もなく、文化庁から上映助成金を得たり、映画祭で上映して口コミの輪を広げたり。監督自身が切符のもぎりもしながら全国各地の市民ホールなどで自主上映してきた。いずれも中年・老年層を取り込んで満員だった。映画人にも評価は高い。
 東京・テアトル新宿の支配人小杉明史さんは「 老人に対する固定化されたイメージを覆した新しい作品」。神奈川県の六つの映画館の運営にかかわる、映画プロデユーサーの福寿祁久雄さんも「『百合祭』は時代に相応しいテーマ。センセーショナルな作品」と称賛する。
 出演者にとっても画期的な作品だったという。主演の吉行さんは、「女優は若い役が回ってくると『まだ大丈夫なんだ』と錯覚しがち。でも、30歳半ばを過ぎるとオファーされる役は、誰々のお母さん、近所のおばさんと、固有名詞がなくなっていく。それだけに、『百合祭』では新しい自分を発見できて、とても楽しかった」
 それでも興業が嫌われるのには、訳がある。映画館は広い客層を相手にしなければならないため、「老人のセックスはやはり見たくない。『老人の性』がキーワードなので観客が絞られてしまうかも知れない。飛びつく興行主は、そうそういないのではないか」と前出の小杉さん。福寿さんも、「ホール上映の方があっているのかも知れません」
 メーンの客層を、普段劇場に足を運ばない高齢者と考える。「劇場にかけるなら暖かくなる春先、朝早くても夕方過ぎもだめ。午前午後で計2回、2週間」(福寿さん)で、どのくらい客が来るか、興行的に成り立つか。そう考えると今すぐの公開は難しいと見る。 
 だが前述の木全さんは言う。「宣伝していないから『百合祭』を知らない興行主も多い。見たらきっと良さがわかる。私は東京や大阪でもきちんと映画館で上映させたい。絶対入る映画ですよ」

『ミレニアム・ウオッチング』
e とらんす 2001年11月号   香川檀(表象文化論)
文化イベントは歴史をどうイメージするか
 「生きていたって、セックスアピールしてくれるようでなけりゃあね」。
 歳をとるとイイ男が払底する状況を嘆いた、映画の中の老女の台詞だ。日本はいま、世を挙げて21世紀型高齢化社会へのモデルチエンジに取り組もうとしているらしいが、そんな時代の要請の応えたかのような映画が出現した。「老人の性」というタブーに挑戦した『百合祭』は、通常とっくに女を廃業したと思われている70歳あたりから90歳過ぎの女性たちを登場させ、彼女たちの第二の「性の目覚め」を描いているからだ。
 原作は、昨年に出た桃谷方子の同名小説(講談社)。一読して、「これは私が撮る映画だ」と直感したのが、ピンク映画300本のキャリアを持つ女性監督、浜野佐知だった。女性の性を真正面から扱いたい、という思いの実ったのがこの映画である。前作『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』で自主製作にのりだした彼女が、国際的に得た高い評価に後押しされ、でも第二弾は全然ちがったテイストのものを作ってみせた。
 舞台は、戦前の洋館風のつくりがレトロな趣をかもす「鞠子アパート」。ここに、69歳から91歳まで、女ばっかり6人が暮らしている。夫婦で入居したのち夫に先立たれた人、夫を看取ったあと息子夫婦と同居がいやで入居してきた人、つい数年前までバーのママをやっていた人、いろんな経歴の女性たちが、それなりにプライバシーと個性を守りながら暮らしている。ある日、88歳の戸塚さんが部屋で倒れて死んでいるところを発見される。老人たちの世界に死の影がおとずれた場面から物語りは始まるわけだが、彼女の魂はその後、鞠子アパートの周辺を浮遊し、「語り手」として声だけ物語に参加していくことになる。
 数週間後、空いた部屋に一人の男性が引っ越してきた。三好さんという75歳の老人で、なかなかお洒落でダンデイ、しかも女性にめっぽう優しいときている。ふだん、「オイ、そこの婆さん」としか声をかけられず、女であることと老人であることという、世の役立たずのダブル・ハンデイに肩身の狭い思いをしてきた女性住人たちは、一挙に色めきたった。ふだんは店子たちに横柄な大家の奥さんも、三好さんにだけは目がハートになる。そんなわけで、住人の一人で、夫の浮気に悩まされた経験から男はもう懲りごりと思っていた宮野さんまで、三好さんに見つめられると胸がときめいてしまうのだ。
 ある日、部屋を訪ねてきた三好さんに迫られて、宮野さんはとうとう彼と男女の関係を結んでしまう。その瞬間、仏壇に供えた白百合のつぼみがポンと音をたてて開いた。宮野さんの「目覚め」のお徴だ。嬉し恥ずかし、はずんだ気分もつかのま、後日、全員揃っての三好さんの歓迎会の席上、彼と関係したのは宮野さんだけではないことが判明。他にも続々と既成事実が露呈してきた。老女たちが急に華やいでキレイになったのは、そのせいだったのだ。ならば私も、と三好さんのおすそ分けに与ろうとする人、がっかりした女同士で急接近する人、とにかくアパートは老人たちの性的パワー全開でめでたしめでたしとなる。
 こういう物語では、男の色気をふりまく三好さんの役どころが一番難しい。人前でははにかみやのダンデイを気取っているけれど、正体はたいした女好き。一対一になると、歯の浮くようなお世辞を言って平気で手を握る。噂では、病院で若い看護婦のお尻をさわりたがる札付きの患者だったとか。こんなエロ爺が傍にいたら、ふつう鬱陶しくてしようがないのだが、ミッキーカーチス演じる三好さんは、男の沽券をふりまわさず、ひたすらサービス精神に徹する、どこか頼りなく中性的なところがいい。だから女性の方でも、遊ばれたという屈辱感が残らないのだろう。キャステイングのとき、日本の男優の中に適当な人が見つからなかった、という監督の苦労談がうなずける。
 それにしても、三好さんという男性は、女性のなかに眠っていた欲望に点火するマッチの火にすぎない。この映画が本当にすごいところは、いくつになっても肌を重ね合いたいという接触欲求を、「目覚めた」女性どうしが同性に向け合うことにある。宮野さん(吉行和子)と横田さん(白川和子)が敢行する、女二人のランデヴーを描いたラストシーンは、鳥肌がたつほどスリリングで、魅惑的。原作にはなかったこの部分に、浜野監督のメッセージがこもっている。
 つまりこの映画には、通常なかなか実現しにくい三つのステップを、ポンポンポンと一気に駆け上がる「三段跳びの快挙」が仕組まれている。一つめは、シルバー・セックスの開花。二つ目は、男をめぐって張り合った女たちの連帯。そして三つ目は、その女どうし間のセックス。最初の段階で終わっていたら、やっぱり「男と女」の対幻想に死ぬまで閉じこめられたままなのだ。
 かつて社会学者の上野千鶴子は、この対幻想ゆえに分断される女たちの連帯を取り戻す方策の一つとして、「オマンコ・シスターズ」なる衝撃的な概念を提唱した。男の愛をめぐって争わされるのではなく、男を(正確には、男のペニスを)共有した女たちが、その共有する体験ゆえに共感し、連帯しあう関係をつくれるはず、というのだ。どちらも三好さんと関係を持ったことが分かったあとの、宮野さんと横田さんが交わす会話は、まさにこの「オマンコ・シスターズ」の精神を彷彿とさせる。「ねえ、どんなだった?」「肉球みたいだった、猫の足の。歳とると、男のなかでアソコがいちばん柔らかくなるのよ」。 でもねえ、そんな内緒の艶話から意気投合した女どうしが、耳たぶの柔らかさを確かめ合うくらいの接触はともかく、キスしたりエッチしたりまで、ふつういくか? このワンステップはそんなイージーなものではないはずで、そのあたり、もしかしてレズビアンの人たちから、甘い! と叱られる一面かも知れない。
 白百合に象徴される官能の開花は、年歳ばかりか、ジェンダーのくびきからも人を自由にする。その跳躍のさまは、もっとデリケートに描き出される必要があるだろう。でも、この映画の強みは、やはりなんといっても、老人を老人として描かないこと、年齢ゆえの自由さを全面に押し出すことにあるのだから、一気呵成の三段跳びもそのパワーのなせるわざとして理解しておこう。だからこそ、ここでは性が、生命の源たるエロスとかなんとか、文学的、詩的に美化されなぞしていない。性をあくまでイヤラシイものとして描き、イヤラシイから素敵なのよ、というピンク映画の哲学が貫かれているのだ。この「イヤラシイ」という台詞が、エンデイングであの清楚な吉行和子の口から誇らしげに吐かれたときは、正直うろたえたけど、女性どうしだからってなにも美化する必要はない。
 ところで、この映画の上映会に足を運んで、ひとつ以外だったことがある。会場に一歩足を踏み入れたとたん、私は一瞬たじろいだ。観客の半数近くが、白髪頭の男性だったのだ。彼らは、この映画になにを期待してやって来たのだろう。モテるお爺さんになるための学習? それは大変、結構なことだ。でも、その後の映画の展開、つまり女たちの「三段跳びの快挙」については、どう感じただろう。できることならインタビューしてみたかった・・・。
 女性が女性のために描く性、というのは古くて新しいテーマだ。小説でも、芝居やダンスでも、そして何より映画やポルノビデオで、それはいつも女性の表現者が避けてはとおれない問題だった。30年間、男の世界でピンク映画を撮り続けてきたという浜野佐知の場合、カラミの撮り方などにやはりその世界の約束事みたいなものが窺える。でも、この映画が、老いという問題と絡めてなお、性をあっけらかんと大胆に描いてみせたことで画期的だったことはまちがいない。こんなに自由で、楽しくて、美味しいセックスが待っているなら、私もせいぜい長生きして70代の性を賞味してみなくちゃソンだぞ、と元気の出てくる一作だった。

朝日新聞「ひと」 2001年9月28日 小幡崇
「老年期の性」に取り組んだ異色の映画監督
 「私が撮らずにだれが撮るのかっていう感じ」。ざっくばらんな語り口、すっぴんにトレードマークのサングラス。ピンク映画の監督を30年以上やってきた。でも、最新作の「百合祭」は、老年期を迎えた女性の性愛を真正面に据えた一般映画。吉行和子さんが主演する。
 年老いた女性ばかりが住むアパートに75歳の陽気で優しい男性が越してくる。その奔放な振る舞いに皆、大いに刺激されて・・・。桃谷方子さんの小説を原作に、彼女らの「枯れない思い」を笑いにくるんで描く。
 小学生の頃からの映画好き。静岡の高校を出て上京したが、映画産業はすでに斜陽を迎え、監督への道が見えたのは、ピンク映画だけ。夢中で突き進んだ。足を踏み入れてギョッとした。映画の中には”男に都合のいい女”ばかり。
 「じゃあ、私が女性の視点から撮ってやろうと」
 70年に監督デビュー。画面から情念が吹き出すような演出は、男性にも支持され、気が付くと、300本も撮っていた。50歳を前に迷いが出る。「ピンクは存分にやった。これからどうする?」。そんな時、孤高の女性作家尾崎翠に出会い、3年前、初の一般映画を自主製作した。
 各地の上映会や講演では異色の監督歴が関心を呼び、性を語る女性の輪が広がった。「私たちも興味はある。性を扱った女性向けの映画を作って」。
 やるべきことを見つけた気がした。「深いかかわりを求める気持ちは年を重ねても変わらない。性の豊かな可能性を感じて欲しい」