映画感想

浜野佐知監督「百合祭」について

水谷史男さん

 マイノリティ minority は「少数派」と訳されて、majority「多数派」と対義語だと説明される。でも、単に数の問題だろうか? たとえば、日本に生まれ日本語で生活していても、戦前に朝鮮半島からやってきた人々の子孫で日本国籍のない「在日」の人たちは、確かに数の上で日本の中では少数派である。少数であることで差別を受けたり、チャンスを与えられなかったり、多数派から無視されたりしやすい。そこでマイノリティに属する人々は、マジョリティに頭を下げて何か恩恵を期待するのではなく、よりましな生活を手に入れるには、自分たちで力を集め権利を主張し異議申し立てをして、対等で公平な扱いを要求する以外にないことを知る。
 女性であること、高齢者であること、セックスについて語ること、はどれも数の上ではけして少数ではない。女性は人口の約半分、高齢者も65歳以上とすれば30%近く、地域によっては既に50%に近い地域(高齢化率全国1は瀬戸内の島にある東和町)もある。セックスについての語りはメディアに溢れている。昔はそれでも控え目にひそひそこそこその隠語だったが、今はためらうことなく語られている。そういう意味では、「高齢女性」はマイノリティではないし「性を語る」あるいは「性を表現する」ことも珍しいことではない。でも、「高齢女性の性」を語ることはマイノリティの問題とほとんど同じ質をもっている。「ババアのセックス」の対義語は「ジジイのセックス」でも「イケメンのセックス」でもなくて、「オヤジの暴力」つまりセクハラ男の暴力的男根主義である。これが今も権力を背景としてマジョリティを形成しているがゆえに、「高齢女性の性」を語ることは圧倒的に少数派なのである。
 この映画は、その「高齢女性の性」を正面から描いている稀有な作品。人生の役割としがらみを脱した6人の高齢単身女性が暮らす場所に、1人の同世代の男性が加わったことで起る騒動を描いた小説を原作に映画化したもの。だが、小説が基本的にはシリアスに、女性たちを恋に血迷う愚かさや滑稽さにおいて捉えるのに対し、映画はこの状況を女性たちの復活と再生、自分の生命そのものへの捉え直しとして描き、最後に独自の結末を創作している。長い間、日本の女性映画監督の草分けとしてピンク映画300本を撮ってきたという浜野佐知さんならではのテーマと映像である。
 海外を含む各種の女性映画祭や自主上映で高い評価を得ているにもかかわらず、この映画はまだ、一般の映画館での上映が難しくなかなか多くの人の眼に触れる機会が乏しい。出演している俳優は、主役の吉行和子さん、白川和子さんをはじめどれも長い実績のあるヴェテランの女優、さらにキーパースンである唯一の男性、三好さんを演じたミッキーカーチスという人が、あの栄光のロカビリーを担ったミュージシャンであるだけでなく、かつて日本映画で異色の演技を残し、落語家としても知られる伝説の人物であることは、若い人には知られていない。
 冒頭のシーン、冬のある日、郊外の洋館風アパート「まりこアパート」に住む女性たちの1人が急死している。彼女たちには死は近くにある可能性だ。この亡くなった女性が、すべてを見ているという形でナレーションを担当する。長い人生を終わりから眺める視線は、日本のこれまでの伝統の中では、達観、諦観、静かな風景として描かれるのが普通だったが、ここでは今現在を生きる視線として愉しく息づいてくる。
 男にとってのセックスは、自分勝手な勃起、挿入、肉体の快感だけに限定されたごく短時間の欲望であり、そこでのイマジネーションは視覚に依存した貧しいものになりがちである。勃起が物理的な視覚で捉えられる限り、女を愛することの実質ではなく、ただ自分の身体が女を満足させられるかどうかにこだわるので、その衰えと喪失は、即自己のアイデンティティ喪失、男としての自信喪失に直結してしまう。しかし、女性にとっては(たぶん)そうではない。
 ぼくはなぜか性別が男なので、女性がそこで何を考えるのか、解るとは言えない。しかし、この映画にはそのヒントがある。高齢者の域に達すると、もはやセックスは、生殖や商品としてのエロティシズムを超えて、あるいは男女の性別というものすら超えて、本来のエロス、固有の名前を持った人間と人間が肌で触れ合うことによってのみ、確実に解り合うなにかを獲得できる唯一の方法なのだ。
 人間が身体を介して、なにかを真に理解する契機は、仏教も言っているが、生老病死に尽きる。つまり、生きることの苦は、健康で若いことにではなく、老いること、病に罹ること、死に直面することによって、はじめて自分が生きていることの意味を理解し始める。自分の存在がマイノリティであったことに気付く。問題はそこで、生きることの快楽が奪われるのではなく、新たに立ち現れると感じるかどうかなのである。映画「百合祭」は、それを描こうとしたといってもいいだろう。
 そこで、多くの人々は激しいファックがセックスの本質だと誤解しているために、その能力を喪失した人間には、生きることの快楽は庭を眺めた盆栽や俳句や悟りの境地にしかないだろうと思われている。ちょっとまて!セックスのエロスが充実して開花するのは、人生のもっと先にこそあるのだ。ただし、生きている必要はある。いや、ただ生きていても死んでいるような人間は多い。少なくとも女は、いつでもセックスを楽しむ用意はある。男のぼくとしては、女同士もいいが、できれば仲間にいれてほしいな、と思う。

明治学院大学社会学部 大学院社会学専攻主任
水谷史男
(2009年3月1日)

札幌で『百合祭』を観て

しげこさん

 作品全体が、挨拶をなされた監督のお人柄そのままなのではないか? 観終えて涙が止まらず、そのまま帰りました。買い物をするとか、お茶をするとか、そんな事は無用で、このままでいいんだ。家に帰れば落ち着くのだと・・・。 
 これまでは映画とは、ストーリーや役者への憧れか原作の小説の魅力に引きずられて観ていたように思います。アメリカ文化の移入で、全ての生活文化の在り方が刷り込まれてきた、戦後の日本の安寧と高度成長の中で日常化した事に気がつかない筈はないのに、年を重ねたという事実を中心に据え、その軸から世間を見回してみるの感です。何が見えるのかといえば、生きていて良いのよ、そのままでいいんだよ、と聞こえてくるような安堵感を得ました。笑いたいようでいて、涙が溢れて止まりませんでしたが、私は泣き虫ではありません。絞っても水は出ないですね。 
 優しくて、温かくてちょっぴりおセンチで、ロマンチックでもあり逞しくて、なかなか諦めないのはやっぱり女の性でもあり、人間の雄雌を越えた命の情念なのでしょうね。性愛はたまたま雄雌に別けて考える場合が多く、性行為と連結して考えるように、生活習慣のなかで獲得します。修正することはまずなしに、人生の終わりがやってきます。皆が初めて年を取るので、それって手本がないのです。 
 映画を観ていて、一人ずつの俳優が役でなしに個性のままに体で生活を表現しているのは、見応えがありました。ゆったりとしたカメラアイが、観ている自分と同じ早さで生活に食いこんで行く感じの切り口が何とも見事でした。勿論、只のおばさんが俳優を個別に知る訳はありませんが、人は顔で、生きてきた生きざまが見えると思います。笑うと意外と若々しい人や、笑わないばかりに自分の顔に気が付かない人も、性はコミュニケーションの一つの接点で、その効果的な使い方を知らないだけなのですから・・・。 
 もう一世代若い、おばさん族はどんな風に感じるのでしょうか。音や匂いや香りやそれらを感じ取る感性は、一日では身に付かず、又特訓で身に付けられるものと違います。太鼓の音色のように、日本の情念は男が書いて(描いて)来たきらいがありますから、男の快感を満たす方向で開放を持って成就し、これに反し、包む、育む、守る、寧ろ受け入れる事で閉鎖的な動きを締めくくるのが女の快感でしょう。この様に育てられてきた日本の性意識は、本来はもっと奔放な明快なものだと信じていますし、そうありたいです。 
 高齢者でも、仲間や特に異性を意識することは、惚けの予防には最高の本質的効果を期待できると思います。作品鑑賞の際にご本人にお目にかかれたことはラッキーでした。今後も女の目で益々のご活躍を、札幌から祈念します。勝手なことを、言いたい放題でご免ください。 かしこ


ガールフェスト(ハワイ)で『百合祭』を観て

ジェーン・アキノさん

知性やユーモア、繊細さと共に美しくつくられたこの映画を、どうもありがとうございました。私たちははじめにHGLCFレインボーフェストを観に行きましたが、そこで上映されたマンゴキッスよりも、あなたがたのこの映画の方がはるかに上をいっていました。浜野佐知さんに賞賛の声を伝えたく思います。世界の高齢化という重要な問題をあつかうこの映画をつくられた、浜野監督のヴィジョン、勇気、粘り強さに賛辞を送りたく思います。監督の高齢者に対する理解と姿勢、そして彼ら独自の美しさを開花させ、自己実現を果たさせようという情熱を思うと、監督ご自身のお若さは驚きに近いものでした。これからも心に訴えかける映画をつくり続けてくださいますように。もっと幅広い観客が観ることが出来るように、この映画を Hawaii International Film Festival や Varsity Theater で上映することは可能なのでしょうか?

Mahalo ! (マハロ!)


東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で『百合祭』を観て

永易至文さん

先日、東京LG映画祭で、百合祭を拝見、大変な感動に打たれた、一ゲイ男性です。東京の映画祭のしばらくまえに、6月末、サンフランシスコを旅することがあり、ちょうど開催中の当地のLG映画祭でも、百合祭が上映されていました(パンフによる。見ませんでしたが。)あとでネットをいろいろ検索して、この作品が各地のLG映画祭でも大好評を博してきたことに、一観客としても、とても嬉しくなりました。もっとも、日本での上映での感想とかには、末尾のレズビアニズムに触れることは、巧妙に避けられているような気もしましたが……。

本当にこの作品には、やられました。老練な俳優さんたちが起用され、もちろん随所随所に小ネタが挟まれて、笑わせてくれて、いわゆる老人の性の問題を扱う映画かな、ここはLG映画祭ではあるけど、まあ、広い意味のセクシュアリティの映画だから、いいかな、と思って見つづけました。
終幕近く、三好さんの歓迎会での修羅場があって、最後、みんなダンスに興じて、それでめでたしめでたしかな(でも、それで終わったら陳腐だな)と思って見ていったら、最後の10分間であんなどんでん返しがあるとは思いもよりませんでした。もう、最後は涙滂沱、泣かされてしまいました。
もちろん、あとで振り返れば、ダンスのときから、じゃあ、私たちも踊りましょうか、と二人で踊り出すところから伏線があるのですが、カクテルを飲みながら、三好さんの「あれ」の柔らかさを共有し、耳たぶに触れてしまうところから、いよいよ雲行きあやしくなり(笑)、ああいう展開になるとは……。
女二人、キスして、吉行さんが、「あ、百合が咲いた」とつぶやいたところで、私のなかでなにかがはじけたのでしょう、涙が止らなくなりました。この作品を見る女の人たちは、ホントに、あの映画で勇気を、元気を、もらったと思います。
私たちゲイも、男ジェンダーに縛られている部分はあるので、自分たちがエイジングを重ねたとき、こうしたすてきな関係をもつことができるのか、この映画の女性たちが、心からうらやましくなりました。
せめては、自分がこの映画に涙をこぼせたことを----ヘテロ男たちは、この映画に怒り出す、というのですから----希望を、喜びを、感じていきたいと思っています。

永易至文(ゲイ、編集者、にじ書房主宰、38歳)
にじ書房:http://www.nijishobo.co.jp

東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で『百合祭』を観て

ミケコさん

今年の映画祭のパンフを見て「あっ!」と気づき、「これは観なきゃ!」と私的一押しだったのが、浜野佐知監督の『百合祭』だった。既に観て知ってる女たちからはオススメだったし、ラブピースクラブのHPのフェミドルインタビューも読んでたし。女友達を誘って出かけたのだった。誘った女友達も「おもしろそうだねえ!」っと大乗り気。

大勢の観客が湧いて起きる笑いの渦を浴びながら観るのは気分が良かった!「やっぱり映画は映画館で観なきゃな」って、なんのこっちゃ。
映画の後の浜野監督とラブピースクラブの北原さんのトークも、もっとたっぷり時間があればよかったのに!

映画祭のパスを使ってたくさん観てきた友達は「この作品が一番良かったかも!」とのこと。別の友人も「鞠子アパートみたいなところで女同士で住みたいかも!」これまた同感!
映画の前も会ってお茶してたのに、観終わってそのままでは帰れなくってまたお茶して
た私達。パンフを回し読みしたり、感想をしゃべくりまくって過ごしたのだった。

 友人達の間では、「三好さん」が高評価を得ていたようだった。「三好さんみたいに、観音さまとか菩薩さまとかって持ち上げられたらうれしいよねえ。」「でも現実には三好さんみたいな男はほとんどいないよねえ。」「でも柔らかいと入んないんじゃないかなあ…」
 浜野監督がトークの中で、「柔らくてもいいのよという男へのメッセージもこめられているのです。」と話していた。柔らかくてもいい入んなくてもいいと伝えても<男らしさの病>に男もまたまみれているなと、私も過去の経験上思ってしまう。だからどんなにソフトに接しられても、崖の上の住人である事に無頓着な男の寛容の掌の上に乗っているように思えて、私はヘテロを卒業してしまった。(と言っても、私は他者への向き合い方がいつも不十分というわけなのだが。)…ありゃありゃ、私の昔話など話してる場合じゃなかった。つい、三好さんの事が話題になって考えが横にそれてしまった。失礼!

で、私がこの映画をつくづくしみじみ味わったのは、常識を転覆させているところだ。
お婆達が自分で枯れていたいならそれはそれでいいのだけれども、世間の常識というヤツが勝手に<婆は枯れてるもの。枯れてるべき。>って強制やら押し付ける事やらに、ドカーンと一発やってくれている爽快さ!
それから<女は男に選ばれる>という常識にもドカーン!なのである。女が男を選び又共用するのである。この映画の素晴らしさはこれら常識の発想を転換し、揺さぶっている所だと感じた。そして原作にはない浜野監督が織り込んだラストのビアンの物語にジーンとしたのはいうまでもない。

byミケコ

ビデオで「百合祭」を観て

大湯久美子さん

今日ビデオが届きました。
「百合祭」楽しく見させていただきました。
私は30代で未亡人になって10年、この映画は私のバンドラの箱の蓋を開けてくれた思いがしています。
私にも今までとは違った人生があるのだと目の前が明るくなりました。
弘前市や青森市の男女共同参画にかかわり、日本女性会議のスタッフとして色々やってきました。
性のことはとても大切な事だと痛感しました。
自分が自分らしく生きていけるように模索しながら、やっていきたいと思います。ありがとうございました。

(04年2月19日のメールより)

雪の青森から

カダールスタッフ・千田晶子さん

 無事にお帰りになったことと思います。
 はるばる雪の青森においでいただき、大変ありがとうございました。
 お蔭様で大盛況の内に終了できましたこと、ありがたく感謝申し上げます。
 浜野さんと山崎さんのトークと意見交換で、私たちが伝えたい愛“自分にとっての幸せ”“あなたにとっての幸せ”は、いくつになっても求めることは恥ずかしいことではなく幸せになる道を歩んでいいんだよっていうメッセージが届いたと、意見交換の活発さで思いました。時間が許せば、もっといっぱい言いたい方はいましたよね。手が挙がっていましたもの。
 映画の上映と監督トーク、そして男性が脚本を書いていてフェミニズムの視点で語れるって、企画側にとってはとってもありがたいことでした。
 会場の女性も男性も発言してくださったのは、それが自然に伝わったことと、お二人の話をお聞きして他人の前で性を語っても、求める気持ちを語ってもいいんだという安心感が会場いっぱいに広がっていたと思います。
 正直、高齢の方々からあんなに確かな共感の言葉を聞けるとは思っていませんでした。青森はまだまだ、ジェンダーの呪縛が根強いと思っていたので、光を見つけた気がしてうれしくなっちゃいました。
 
 どうぞ、また青森においでください。私たちはこれからもカダールを拠点として自分らしく生きること、「私は私を大切に思うのと同じ重さで、あなたを大切に思う」気持ちを発信し続けながら、社会の変革につながるような実効性のある道を探りすすめたいと思っています。
 とっても明るくパワーあふれる浜野さんと、懐が厚く包み込むような大きさの山崎さんに乾杯!!
 またご一緒に飲める機会があればいいなと思っています。青森には(まだちょっとジェンダーの呪縛から逃れられないのですが)女性を認め、一緒に行動してくれる男性がいっぱいいます。魅力あるボーイフレンド達をご紹介できなかったのが心残りです。

 どうぞ、お元気でご自愛ください。お疲れでしょうと存じますが、映画上映と監督トーク、脚本家との意見交換は絶対一緒の方が思いが伝わります。企画側には最高のプレゼントでした。スタッフ一同、感謝申し上げます。

(2004年1月26日)

好きになること、あるいは素敵さに係わること

細谷実さん

 浜野佐知監督の通算300+n本目、一般映画としては2作目の『百合祭』(2001年)を見に行きました。一般映画の第1作目『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』を98年に撮るまでのおよそ30年の300余本の映画は、ピンク映画です。
 去年のあるパーティーで、ぼくに浜野監督を紹介して『百合祭』を薦めてくれたのは、さる女性教育会館の館長でした。その日まで、いちおう頭の片隅にその新作映画のことはありましたが、単に曖昧な一つのデータでした。それが、監督本人と少し話して、「ぜひ見たい」と思ってアチコチで話題にしていました。すると、1月ほど前、さる女性センターの館長(先ほどの人とは別人)から、「横浜で上映されるよ」との情報をいただきました。
 ピンク映画300余本の監督、男女共同参画行政関係者(女性)からのネットワーク、普通なかなか両者はむすびつきません。実際、この映画には賛否両論出ています。−ということを前振りとしておいて、以下は映画を見てのぼくの感想。
 舞台は、高齢女性ばかりが住んでいるレトロな洋館の鞠子アパート。そこに、ミッキー・カーチス演じる三好さんが転居してきたことから話が始まります。
 とてもソフトで陽気な三好さんは言葉巧みでダンディな(つまり、巧言令色ってこと?)元演劇青年の75歳。おばあさんたちは、みんな色めき立ちます。
 もてもて三好さんもまんざらでもなさそう。花から花へヒラヒラと舞う蝶々のように(←監督表現)、隣人の女性たちから甘い蜜をいただいて楽しそうです。(吉行和子さんとの濡れ場は、さすがピンク300本の浜野監督! ちんこは勃ちませんでしたが、心臓はドキドキしました。おかずにならない、エロの楽しみ。これ以上は、まだ見ていない人の楽しみを奪うことになります。しかし、それでは感想も書けないので、さらにストーリーを紹介。)
 ところが、一人の女性が、「浮気をする三好さんがいけない!」とみんなの前で爆弾発言。「えっ、わたしだけとじゃなかったの!?」と気づいた女性たちを、上手く納得させる三好さん。しかし、別の情報源から、妻と20年前に死別したと言っていた三好さんが、実は浮気を責められ妻に家を追い出されてきたことや、三好さんが入院先で看護婦さんや患者さんに手をだしまくりで「エロ爺」と呼ばれて強制退院させられていたことが発覚。
 一度は、怒り呆れる女性たちでありましたが、女の人はみんな素敵で魅かれてしまうのです、という三好さんの性愛観を受け入れていく。それは、同時に、今まで考えてもみなかったが、自分たちの中にもある「好きなものは好き、素敵なものには魅かれる」という性愛観(むしろ、性欲?)に目覚めることでした。
 その後は? 三好さんとエロスを楽しむ女性たち。さらに、自分たち同士で、エロスを楽しむ女性たち。吉行和子と白川和子が「いやらしいこと」もしています。
 さて、この映画に、高齢の男の人達は怒り出す人も多いとのことです。まあ、三好さんて、かつての覇権的男性像の理想から見ると、女をたぶらかして男の風上にもおけない、キザで軟弱で虫酸の走る男ってことでしょう。もちろん、その気持ちには、嫉妬が大半です。また、三好さんとならまだしも、女同士で「いやらしいこと」をするとは何事だ! というお怒りなのでしょう。もちろん、その気持ちにも嫉妬が大半です。
 面白かったのは、三好さんのような性愛観がむしろ女性たちの方に眠って存在していることです。この映画の女性たちで唯一不幸そうなのは、三好さんを追い出した三好さんの妻です。彼女だけが三好さんのような性愛観を認められず、まして共感もできなかったのです。
 なんででしょう? 思うに、鞠子アパートの女性たちに比べて自由ではなかったからでしょう。では、なぜ自由ではなかったのでしょう? 妻には妻の座も財産も社会生活もあるからです。鞠子アパートの女性たちは、年を取り、一人になり、アパートに入ることで、それらを失っています。彼女たちにも嫉妬心あるかも知れません、しかし、それは、自分の座絡み、プライド絡みではないでしょう。
 まさに、「好きなものは好き、素敵なものには魅かれる」という性愛観(むしろ、性欲)にとって、家族制度は足かせなのです。
 もう一つ足かせがあります。それは、恋愛イデオロギーです。それは、「好き」を過度に飾り上げ盛り上げるものです。「こんなに好きなんだから、ずっと好き(=永遠性の幻影)、あなただけ/わたしだけ好き(=排他的対の幻影)、あなたの全部が好き(=全人格性の幻影)」という盛り上げ方です。これは、「好き」を重たくし、「いやらしいこと」に言い訳を必要とさせるようにします。
 映画でぼくが気づいたことは、三好さんは、相手を賛美して口説くのですが、「ずっと好き、あなただけ好き、全部好き」というようなことは一切言わないことです。
 もしも年を取ることが自由になることでありうるならば、ぼくたちも、鞠子アパートの住人にきっとなれます。
 ところで、ひとつだけ気になったことがあります。最後の方では鞠子アパートの女性たちに、むしろ三好さんの方が取り残されてしまいました。それは、三好さんは、宮野さん(吉行和子)の白昼夢の中でこそ、白雪姫になってジェンダーを越境しますが、しかし、性指向はあくまでバリヘテ(バリバリのヘテロセクシュアリティ=異性愛)。  
 ラストの展開に、女性たちは納得し、男たちは怒り出すとのことです。
 百合は咲いたか、薔薇はまだかいな?
 でも、ラストの展開は、桃谷方子さんの原作にはなかったのを、脚本の山崎邦紀さんが付け加えたのだそうです。男でも、分かっている人はいるんだよね。

(2003年2月10日)