リュブリャナ国際G&L映画祭 「ピンクドラゴン賞」(審査員賞)受賞 |
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ストーリー | キャスト | 芳子&百合子とは? |
監督インタヴュー | ロケ地を振り返る |
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これは友愛(フレンドシップ)か、恋愛(リーベ)か?女性二人が、自分たちの関係について精魂傾けて討論し、お互いの愛を深めて行く。 |
ストーリー1924年(大正13年)ロシア語を勉強しながら、雑誌『愛国婦人』の編集をしていた湯浅芳子(菜 葉 菜)は、先輩作家・野上弥生子(洞口依子)の紹介で、中條百合子(一十三十一)と出会う。百合子は17歳で「貧しき人々の群」を発表し、天才少女と騒がれた小説家。19歳の時に遊学中のニューヨークで、15歳年上の古代ペルシア語研究者の荒木茂(大杉漣)と結婚するが、芳子と出会った5年後には二人の結婚生活は行き詰まっていた。お互いに惹かれあった芳子と百合子は、親しく付き合い始めるが、芳子は「私は、男が女に惚れるように、女に惚れる」と公言して憚らない女性だった。二人の情熱的な関係はリーベ(恋)かフレンドシップ(友情)か?二人はディスカッションしながら関係を深めて行く。しかし、それは荒木にとって生活の根底を揺るがすものだった。20歳でアメリカに渡り、15年間にわたって苦学した荒木は、百合子と結婚することによって帰国し、大学教授の職も得ることができた。芳子に百合子を奪われることは、なんとしても避けなければならない。百合子、芳子、荒木の3人は、東京と、百合子の祖母が住む福島県の安積・開成山(現・郡山市)の間を往復しながら、異性愛と同性愛が交錯する愛憎のドラマを繰り広げる。 |
キャスト
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芳子&百合子とは?湯浅芳子とは
湯浅芳子は、1896年京都の裕福な商家に生まれた。17歳で上京し、日本女子大英文予科に入学するが、中退。ドストエフスキーをはじめとしたロシア文学に深く傾倒し、19歳から本格的にロシア語を学び始める。この頃、作家・田村俊子に惹かれ、愛するようになる。 宮本百合子とは
宮本(中條)百合子は、1899年、建築家の父、中條精一郎と倫理学者西村茂樹の次女霞江の娘として生まれた。幼いころから才気煥発な娘だった百合子は、17才で初の小説『貧しき人々の群』を書き、坪内逍遥の推薦で中央公論に掲載される。本作は、幼いころから訪れていた祖父の家のある福島県の郡山で、目にした貧しい小作人たちの生活を描いたもので、発表時は「天才少女」として大きな注目を集めた。同年、日本女子大学英文予科に入学するが退学。19歳で父親と共に渡米、ニューヨークに一人残り留学生活を続ける。1919年現地で出会った15歳年上の古代東洋語研究家荒木茂と結婚。帰国する。その5年後の1924年、湯浅芳子と出会い『伸子』を書き始める。翌年、荒木と離婚。芳子と共同生活を始める。1927年から3年間、芳子と共にソビエト・ロシアに留学。ヨーロッパ旅行を経て帰国する。1930年、百合子は日本プロレタリア作家同盟に加入。プロレタリア文学運動に参加し、その過程で、文芸評論家で後に日本共産党書記長になる9歳年下の宮本顕治と出会う。1931年に日本共産党入党。1932年に芳子と別れ、宮本顕治と結婚する。その後まもなく、プロレタリア文化運動に加えられた弾圧のため、顕治は非合法活動を余儀なくされ、まもなくスパイ査問事件の主犯の疑いをかけられ検挙。二人の結婚は12年に及ぶ別居生活となる。 |
浜野佐知インタヴュー |
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湯浅芳子と宮本百合子の物語を、映画化しようと思ったきっかけを教えてください。原作と初めて出会ったのは、15年ほど前だったと思います。ある女性の作家から「これ、浜野監督にぴったりだと思うのよ」と手渡されたのが沢部ひとみさんの「百合子、ダスヴィダーニヤ」でした。最初は変なタイトルの本だなあ(笑)、とあまり興味を持てなかったんですが、読み進んで行くうちに湯浅芳子という人の鮮烈な生き方に夢中になっちゃったんですね。だって、大正から昭和という時代に「男が女を愛するように、女を愛する」と公言して生きたんですよ。あの時代にそんな生き方を貫くのは本当に大変なことだったと思います。 湯浅芳子と宮本百合子、二人とも強烈な個性の持ち主ですね。劇中の二人のセリフの多くは、二人が実際に交わした書簡の言葉が元になっています。芳子が百合子に送った手紙に「私はあなたによって良くされ、あなたも私によって良くされる。私はあなたを愛し、あなたの仕事を愛する」という言葉があります。それに対して百合子は、「私は、この愛がなんという名であろうとも、あなたの愛で、あなたという心の城を持って生きる」という返事を返すんですが、百合子、もうベタベタでしょ?(笑) ふたりの個性がはっきり表れている言葉だと思います。好きとなったら盲目的に突き進む百合子に対して、芳子はきちんとお互いを対等に見ている。互いの仕事を愛し、互いに高め合い、社会におもねることなく自己を貫き通す。そうした芳子の生き方に私はとても共感するんです。 芳子と百合子が別れた後、百合子は私小説『伸子』の続編『二つの庭』、『道標』で、芳子のことを不当におとしめるような書き方をします。けれども芳子はそれについて自ら語ることはなかったそうですね。芳子は、百合子を愛し、百合子の裏切りにあった後も、「私は何人にも言わぬ。胸ひとつにおさめて黙る。しかしこのことは百年ののちに明らかにされていいことだ」と沈黙を貫いています。その潔さ。芳子は生涯百合子を愛したんだと思います。百合子が51歳で死んだとき、その追悼文に「生きたひとに逢いたかった。互いにもっと生きて逢いたかった」と書いているのですが、二人の愛を全否定するような百合子の裏切りに合ってなお百合子は生涯芳子の心の中に住んでいた。それは芳子にとってある意味無念の想いだったのかもしれない。だからこそ、私が今出来ることは、芳子の無念を、百年後の真実を映画として今に甦らせることだと思ったんですね。 愛に向かって貪欲に突き進む百合子のパワーにも圧倒されます。百合子はとてもエネルギッシュで、怖いもの知らず。自分を信じて真っすぐに突き進んで行くパワーを持つ反面、世間知らずのお嬢様的な面もある。そういうアンバランスなところに荒木は惹かれたんじゃないかと思います。ほら、よくいるでしょ? 「こいつ、生意気だけど、俺が守ってやらなくちゃいけないんだ」っていう勘違い男(笑)。でも私、案外、荒木、好きなんですよ(笑)。沢部さんの原作でも陰陰滅滅の根暗な男として描かれているし、芳子からは「何であんな男に惚れたんだ」とか言われちゃうし......(笑)。だけど、今時だってあんな夫、そうそういませんよ。妻の自由を認めて、好きなことをやらせて、ひたすら百合子の帰りを待って、帰ってきたら、喜び勇んで食事を作って(笑)。だけど、百合子には物足りない。百合子に必要なのは、自分を伸ばしてくれる人、自分にとっての肥やしになる人。映画の最初で、百合子が荒木に向かって、「私、あなたに喰われているような気持ち」と言うセリフがあるのですが、「おいおい、喰ってるのは、百合子、あんただろう」って......(笑)。 百合子の悩みは現代を生きる働く女性の悩みにも通じますね。百合子の閉塞感も分かるんです。いい仕事をしたい、社会の中で女が行きつけない高みに昇りつめたい。そんな百合子にとって家庭は足枷でしかない。結婚は自分の伸びていくエネルギーを塞ぐシステムでしかなかったんですね。百合子のセリフで、「日本には妻や母という位置に引っ張られて、自分の仕事を半分にし、しかも両方への愛着を口にしながら生活している女は無数にいる」というのがあるんですが、これは現代の女性が抱えている問題そのものですよ。百合子の時代から百年近くたってなお何も解決していない。以前、中学生女子に講義した時、「仕事と家庭ってどうやって両立するんですか?」と質問されました。彼女たちにとっては、両立がゴールなんですね。両立させることが女が自分らしく生きることだと思っている。思わず「両立なんて考えなくていい!」と怒鳴っちゃいましたけど(笑)。 菜葉菜さんと一十三十一さん、二人の女優さんは、その個性を見事に演じてくれていますね。菜葉菜さんは、芳子という人物をとてもよく理解して表現してくれたと感じています。映画というのは、さまざまなシーンを撮ってそれを後でつないでいくものなのですが、菜葉菜さんはその温度の違うシーンひとつひとつをばらばらに演じながらも、芳子の孤高さを非常によく表現してくれていました。一十三十一さんは本来は歌手で、お芝居は初めてなのですが、勝ち気で魅力的な百合子のイメージに本当にぴったりな方で、わたしが無理をしてお願いしました。一十三十一さんご本人もおっしゃっていましたが、彼女は性格も百合子と似ているそうで(笑)、現場で日を追う毎に一十三さんが百合子そのものになっていく感じがとても興味深かったです。一十三さんが生まれながらに持つお姫さまのようなパワーが、百合子の傲慢さや、愛する相手に全身で寄りかかっていく甘えをよく表していたと思います。 この映画で描かれる彼女たちの生き方は、監督ご自身の生き方にも通じるように思えます。私にとって、「生きること」はイコール「自由であること」なんですね。誰にも束縛されず、生きたいように自由に生きる。だけど、「自由」というのはイコール「孤独」でもあるんです。真の自由は孤独と引き換えでないと得られない。今年で40年映画監督をやっていますが、監督という職業は、ものすごく孤独なんですよ。現場では何十人ものスタッフに囲まれて、君臨しているかのようですけど(笑)、だからこそ誰も頼れないし、誰も助けてくれない。全てのリスクを背負って決断し続けなければならないのは結構怖い(笑)。そういう人生をずっと歩いてくると、人の心の深い深いところにある、うまく言えないけど、どこか宇宙的なものに惹かれていくんですね。心の奥の奥に、その人以外は誰も立ち入れない静謐な湖があるような、そうした人の心のスピリットを映像にしたいと思うんです。『こほろぎ嬢』(2006年・尾崎翠原作)の時もラストに「宇宙にあまねく存在するすべての孤独な魂へ」という言葉を添えたんですが、孤独な魂というものは、決して寂しくも悲しくもない、真に自由で凜とした魂のことだと思うんですね。そして湯浅芳子にも私は同じ魂を感じるんです。芳子は明治29年生まれですが、実は、私が今までに映画化した尾崎翠(『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』『こほろぎ嬢』)も同じ年生まれなんですね。翠もまた、時代に左右されない自由な作品を書き、生涯独身を貫くなど、あの時代の女性としては桁外れな生き方をした人でした。私はどんな時代でも社会から押し付けられるものをぶち壊し、自由に、自分らしく生きた人に惹かれるんですね。 |
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〜ロケ地を振り返る〜 Photo Essay第一回・加茂荘との出会い映画制作において最も重要な事はロケ地選びである。 江戸時代中期の安永2年(1773年)から続く庄屋屋敷。 芳子は開成山の百合子を度々訪ね、二人の愛を高め合っていく。 |
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第二回・いよいよクランクイン2010年10月3日、『百合子、ダスヴィダーニヤ』はクランクインを果たした。 郵便局から出てくる芳子(菜葉菜さん)の撮影風景。郵便局員には島田FCの清水さんがエキストラ出演。 大正末期の雑誌編集室の雰囲気を醸し出す北河製品所内部。 翌日からの2日間は島田市博物館分館で芳子の部屋の撮影。 分館の2階に部屋のセットを作り、1階はメイクルームや衣裳部屋として使用。 |
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第三回・大井川鐵道×天竜浜名湖鉄道芳子に会いたい一心で汽車に飛び乗る百合子(一十三十一さん)、百合子と芳子の女同士の関係に気づいて矢も楯もたまらず百合子の元に駆けつける夫の荒木(大杉漣さん)。 大井川鐵道を走る威風堂々のSL。1998年の『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』にもこのSLが登場。 天竜二俣駅ではエキストラの皆さんが大勢参加してくれ、賑やかな撮影となったが、当時の着物の着付けや化粧で衣裳さん、ヘアメイクさんは大忙しだった。 夜間撮影だったが、照明部さんは5人がかりで朝9時からセッティング。 駅前から百合子と芳子が乗る人力車シーンでは掛川城前で営業している人力車掛川組が出張、昼夜に亘って大活躍してくれた。 開成山の開拓地を走る人力車。実際は加茂荘前の道で撮影した。 |
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第四回・メインセットの加茂荘へ掛川市にある加茂荘では連続5日間に亘っての撮影が行われた。 百合子から別れの電報が届き、慌てて開成山の祖母の家に駆けつける荒木(加茂荘玄関前)。 「これは女同士の友愛か、それとも恋愛か。」 芳子と百合子を初め女優陣が着る着物は、NPO法人京都古布保存会から提供された 10月3日から12日まで10日間休みなしで続いた静岡県西部での撮影が終わり、撮影隊はいよいよ静岡県東部に移動することに。 写真右から一十三十三さん、大杉漣さん、浜野監督、大方斐紗子さん。 |
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第五回・熱海市10月13日に掛川の加茂荘から伊豆の国市まで移動した撮影隊は休む間もなく東部での撮影に備えた。 文化財での撮影は気苦労も多いが、 吉行和子さんと一十三十一さん(百合子)の母娘がワインを飲みながら語り合う長丁場をワンシーン・ワンカットで撮影したが、吉行さんの口から語られる大正時代のセリフ回しは実に見事なものだった。 スタッフたちが固唾を飲んだワンシーン・ワンカットの撮影も二人の息のあった掛け合いで一発OKとなった。 続いて、熱海市にある旅館の別邸である西紅亭(せいこうてい)の2階を百合子と夫の荒木が暮らす青山の家という設定で撮影。 本格的な茶室を備えた瀟洒な建物。亀裂を深めていく百合子と荒木。 |
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第六回・静岡県東部から再び西部へ10月16日、撮影隊は函南町の宿舎から再び掛川市の加茂荘に遠征。 芳子と百合子の関係に気づき、覚悟を決めて開成山に向かう荒木。 開成山に住む祖母役の大方斐紗子さんは福島県出身で、古い方言指導でもご協力頂いたが、なんと、人力車の車夫の声も大方さん! 人力車で帰る芳子を百合子と祖母が見送る。 加茂荘前での人力車の撮影は深夜に及び、宿舎の畑毛温泉に戻ったのは翌日の早朝だったが、休む間もなく撮影隊は静岡市に出発。「旧マッケンジー邸」に向かった。 大正時代の衣裳を身につけた女性エキストラの皆さんの前で迫真の演技を見せる大杉漣さん。 |
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第七回・伊豆の国市&沼津市10月19日からは静岡県東部を移動しながらの忙しい撮影が始まった。 野上弥生子は百合子の先輩小説家として親しく付き合っていたが、この日訪ねて来た芳子を紹介し、 翌10月20日は沼津市の「千本松・沼津倶楽部」にある大正時代に作られた数寄屋造りのサンルームを使ったレストラン「ヴィーア・サクラ」で終日撮影。沼津市に住んでいてもなかなか訪れる機会のないセレブ用の施設とのことだったが、今回撮影出来たのは、沼津のFC「フィルム微助人(びすけっと)」を中心に沼津市や沼津商工会議所が展開する「さぁ来い、ハリウッド!大作戦〜ロケでまちが元気になるプロジェクト」(通称“ハリプロ”)の紹介によるもの。せっかく「さあ来い、ハリウッド!」と呼びかけているのに我々のような貧乏撮影隊が押しかけて恐縮だったが、ハリプロの皆さんには炊き出しからエキストラの手配まで本当にお世話になりました。 早朝から深夜まで心置きなく撮影させてくれた沼津倶楽部さんに心から感謝! |
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第八回・畑毛温泉からシベリア鉄道へ10月21日、午前中はスタッフの合宿所である畑毛温泉の民宿・西館の別館を芳子の家の表周りと玄関として撮影。室内はすでに島田市博物館分館で撮っているのだが、玄関の出入りと階段を上がるまでをここで撮影し、階段を上がって部屋に入るところから遠く島田市の博物館分館に繋がる。映画のマジックだが、それも建築の様式が似ているからこそ出来ることなのだ。 荒木と百合子の家から百合子がやっと帰ってきた時のシーン。待ちかねた芳子が百合子を迎える。 午後からは、函南町の荻原金型倉庫に作ったシベリア鉄道のセットで、釜山・ハルピン経由でモスクワに向かう芳子と百合子のシーンを撮影。シベリア鉄道のセットといっても一車両を作る事は出来ないので、コンパーメントの室内だけを作り、走る列車の窓外の吹雪は発泡スチロールを細かく砕いた粉を扇風機で送って表現した。 もともと美術部の倉庫としてお借りした2階をスタジオとして使わせて頂いた。 希望を抱いて向かったソビエト留学。民間の日本女性としてはこの二人が初めてだったが、帰国後、プロレタリア文学運動に邁進する百合子と、一歩距離を置く芳子に決定的な別れが待っていた。 芳子と百合子が3年間のソビエト留学から帰った後に訪れた、 夜になってもまだまだ撮影は続いた。夕方からは沼津に移動し、文光堂印刷で芳子が雑誌「愛国婦人」の出張校正をしているシーンを撮影。大正・昭和初期には活版印刷が主流だったが、今でも活版の印刷機と活字を使っている印刷会社は少ない。静岡県内をくまなく探し、出会ったのが文光堂印刷さんだった。ここでは戦前にも使われた手差しの活版印刷機があり、現役で使われていた。 手差しの印刷機を操作しているのは実際にこの会社で活版印刷機を担当している職人さん。 |
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第九回・クランクアップ!10月22日、ついにクランクアップの日を迎えた。撮影隊は早朝6時半に畑毛温泉の宿舎を出発し、日本百景の一つで「伊豆の瞳」と呼ばれている一碧湖に向かって出発した。 福島県・猪苗代湖の湖畔として撮られたのだが、猪苗代湖の実景と全く違和感なく繋がった。 猪苗代湖。静岡ロケ終了後、演出部と撮影部は猪苗代湖に向かい、3日間に亘って湖畔や磐梯山の実景撮り。 続いて撮影隊は熱海市の石坂浪漫という名のついた石畳の道に移動。有名な別荘などが点在する坂道だが、電柱などは美術部がよしずで隠したりしてなんとか大正時代の雰囲気を作ることが出来た。 石畳の坂道を百合子が歩いてくるカットでオールアップ! 10月3日のクランクインから約3週間、島田市の北河製品所から始まった『百合子、ダスヴィダーニヤ』のロケは静岡県内を東進し、ついに熱海市でクランクアップを迎えたのだった。 過酷な撮影を乗り切った菜葉菜さん(芳子)と一十三十一さん(百合子)も晴れ晴れとした表情だ。 |
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第十回・番外編映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』は、2010年1月、「ハリプロ映像協会」(沼津市)主催のロケ地ツアーから始まった。このツアーで出会ったのが、フィルムコミッション「微助人(びすけっと)」の金子恭子さん、「花道ファクトリー」の土屋学さん、そして後に「支援する会・静岡」を立ち上げてくれた石垣詩野さんだ。 「フィルムサポート島田」が交渉してくれた加茂荘(掛川市)は、本作のメインセットとして登場。 撮影隊の宿舎・野外活動センター山の家(島田市)近くの大井川河川敷で芳子と百合子が散歩するシーンを撮影。 「花道ファクトリ−」が交渉してくれた茶懐石亭・西紅亭(熱海市)で、別れを切り出した百合子を必死で引き留めようとする荒木のシーンを撮影。 「支援する会・静岡」はマスコミへの告知や取材対応、ポスターのデザイン・制作などに力を発揮してくれた。ポスター撮影は、函南町の倉庫に朝6時半という無茶なスケジュールにもかかわらず、石垣詩野さんとデザイナーの利根川初美さんは静岡市から、カメラマンの小川博彦さんは掛川市から駆けつけてくれ、メインヴィジュアルとなる素晴らしいポスター写真を撮影してくれた(利根川初美さんは、パンフレットのデザインも担当)。 「この愛がなんという名であろうとも、あなたの愛で、あなたという心の城をもって生きる」(中條百合子) 2010年10月、約1ヶ月間に亘って静岡各地でロケをした『百合子、ダスヴィダーニヤ』だったが、今振り返って、静岡で撮影したことが映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』に力を与えてくれたと思う。支援してくださった静岡各地の皆さま、そして、資金集めに奔走してくれた「支援する会・東京」(代表・カドカチェトリ順)のメンバーにも心から感謝している。 「淋しくはない。孤独だけれど淋しくはない。同じ魂の人間もいるし」 |