リュブリャナ国際G&L映画祭
「ピンクドラゴン賞」(審査員賞)受賞

作品紹介


浜野佐知監督作品

−原作−
沢部ひとみ『百合子、ダスヴィダーニヤ』
宮本百合子『伸子』『二つの庭』

−製作−
株式会社 旦々舎
企画:鈴木佐知子  脚本:山崎邦紀  撮影:小山田勝治
照明:守利賢一   美術:奥津徹夫  音楽:吉岡しげ美
編集:金子尚樹   制作:森満康巳
衣裳:NPO法人京都古布保存会

−制作協力−
「浜野佐知監督を支援する会」東京(代表・カドカチェトリ順)
「浜野佐知監督を支援する会」静岡(代表・石垣詩野)

−助成−
文化芸術振興費補助金





ストーリー キャスト 芳子&百合子とは?
監督インタヴュー ロケ地を振り返る

これは友愛(フレンドシップ)か、恋愛(リーベ)か?

女性二人が、自分たちの関係について精魂傾けて討論し、お互いの愛を深めて行く。

時は1924年(大正13年)。湯浅芳子は、後にチェーホフなどロシア文学や演劇の名翻訳者として知られるが、当時はロシア語を勉強している雑誌編集者。「スカートをはいた侍」と呼ばれ、一生「女を愛する女」であることを隠さずに生きた。一方、戦後民主主義文学の旗手として活躍した宮本百合子は、17歳で天才少女作家としてデビューし、早くに結婚して作家活動をしながら、夫・荒木茂との生活に行き詰まりを感じていた。二人は出会ってすぐに惹かれあう。意気投合した二人は7年間に渡って共同生活し、揃って民間女性として初めて3年間のソビエト・ロシア留学を敢行する。しかし、帰国後、百合子は、文芸評論家で後に日本共産党書記長となる宮本顕治と再婚し、二人の共同生活は破綻した。


ストーリー

1924年(大正13年)ロシア語を勉強しながら、雑誌『愛国婦人』の編集をしていた湯浅芳子(菜 葉 菜)は、先輩作家・野上弥生子(洞口依子)の紹介で、中條百合子(一十三十一)と出会う。百合子は17歳で「貧しき人々の群」を発表し、天才少女と騒がれた小説家。19歳の時に遊学中のニューヨークで、15歳年上の古代ペルシア語研究者の荒木茂(大杉漣)と結婚するが、芳子と出会った5年後には二人の結婚生活は行き詰まっていた。お互いに惹かれあった芳子と百合子は、親しく付き合い始めるが、芳子は「私は、男が女に惚れるように、女に惚れる」と公言して憚らない女性だった。二人の情熱的な関係はリーベ(恋)かフレンドシップ(友情)か?二人はディスカッションしながら関係を深めて行く。しかし、それは荒木にとって生活の根底を揺るがすものだった。20歳でアメリカに渡り、15年間にわたって苦学した荒木は、百合子と結婚することによって帰国し、大学教授の職も得ることができた。芳子に百合子を奪われることは、なんとしても避けなければならない。百合子、芳子、荒木の3人は、東京と、百合子の祖母が住む福島県の安積・開成山(現・郡山市)の間を往復しながら、異性愛と同性愛が交錯する愛憎のドラマを繰り広げる。


キャスト

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菜葉菜(なはな)
=湯浅芳子

初主演映画「YUMENO」鎌田義孝監督(2005)で個性際立つ演技が評価され脚光を浴びる。以後、映画を中心に活躍。2010年公開の主演映画「ハッピーエンド」では米オ−ステイン映画祭で最優秀観客賞を獲得。他の主な出演作品に「夢の中へ」園子温監督、「孤高のメス」成島出監督、「片腕マシンガ−ル」井口昇監督、「ヘヴンズスト−リ−」瀬々敬久監督(ベルリン国際映画祭、国際批評家連名賞、最優秀アジア映画賞)など多数がある。



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一十三十一(ひとみとい)
=中條(宮本)百合子

札幌出身。幼少時代よりスパイシーな家族とともに世界諸国を旅して廻る。2002年「煙色の恋人達」でデビュー。"媚薬系"とも評されるエアリーでコケティッシュなヴォーカルで独自のポップスを展開。2007年にはディスニーアニメ「リロイ&スティッチ」のエンディングテーマを歌う。クラブミュージックや民族楽器とのコラボレーションなどジャンルや国境を超え、ボーダレスに活動中。客演多数。ライブパフォーマンスにも高い評価を得ている。今秋、オリジナルアルバムをリリース予定。


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大杉 漣(おおすぎ れん)
=荒木茂

1951年9月27日、徳島県小松島市生まれ。1973〜1988年の解散まで劇団転形劇場に所属。78年高橋伴明監督作品で映画デビュー。北野武監督『ソナチネ』で注目を集め、SABU監督『ポストマンブルース』でおおさか映画祭助演男優賞、崔洋一監督『犬、走る DOG RACE』、北野武監督『HANA-BI』等の演技でキネマ旬報、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞など数々の助演男優賞を受賞。出演映画は300本を超え、最新作は『一枚のハガキ』『ツレがうつになりまして。』『スマグラー』『FLY!〜平凡なキセキ〜』ほかテレビ、ナレーション、CM、音楽など幅広く活動。本作では百合子の夫で古代ペルシア語研究者の荒木茂を熱く演じる。


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吉行 和子(よしゆき かずこ)
=中條葭江

東京都出身。女子学院高等学校在学中に劇団民藝付属水品研究所に入所。1955年に『アンネの日記』のアンネ・フランク役でデビュー。その後多くの舞台、映画、テレビドラマに出演すると同時に、エッセイスト、俳人としても活躍。父は作家の吉行エイスケ、母は美容師の吉行あぐり。兄は作家の吉行淳之介。妹は詩人の吉行理恵。『第七官界彷徨〜尾崎翠を探して』『百合祭』『こほろぎ嬢』と、浜野佐知監督一般作品の全てに出演。浜野映画にはなくてはならない存在である。本作では百合子の母、中條葭江を演じる。




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洞口 依子(どうぐち よりこ)
=野上弥生子

東京都出身。1985年黒沢清監督『ドレミファ娘の血は騒ぐ』で映画主演デビュ−。以降、伊丹十三監督の『タンポポ』『あげまん』ほか多くの映画、テレビドラマに出演。2007年には自らの子宮頸がん体験を綴った『子宮会議』(小学館)を発表。ウクレレバンド「パイティティ」での活動など、多彩な才能を見せている。本作では、百合子の先輩にあたる女性作家で、百合子と芳子を結びつけたキューピッド役でもある野上弥生子を好演。


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麻生 花帆(あそう かほ)
=北村セイ

東京都出身。東京芸術大大学院音楽研究科博士課程修了(邦楽囃子専攻)。同大在学中に優れた学生に贈られる安宅賞を受賞し、三味線音楽系では初の邦楽博士号を取得。囃子では藤舎呂船(とうしゃ・ろせん)に師事し「藤舎花帆」の名で、日本舞踊では松本幸四郎に師事し「松本幸妃(まつもと・こうひ)」の名で活動している。本作では芳子の元恋人で京都の芸妓であった北村セイを演じる。セイが劇中で唄う「鬢のほつれ」は圧巻。


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大方 斐紗子(おおかた ひさこ)
=中條運

福島県出身。福島女子高等学校卒。劇団俳優座付属養成所出身。浜野佐知監督作品には『百合祭』『こほろぎ嬢』に続いて三度目の出演となる。演技だけではなく歌唱力にも定評があり、数々の舞台やミュージカルで活躍している。12役をひとり芝居で演じた舞台『ウィンド・ミル・ベイビー』、ミュージカル主演作『ハロルド&モード』のほか、シャンソン・コンサート『エディット・ピアフに捧ぐ』など、現在も精力的な活動を行っている。本作では、百合子が小説を書くために滞在した福島、開成山に住む祖母、中條 運を演じ、やわらかくも味のあるお国言葉を披露した。




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平野 忠彦(ひらの ただひこ)
=中條精一郎

東京芸術大学卒業。同大学専攻科終了。同大専攻科在学中『フィガロの結婚』のフィガロ役でデビュー。日本を代表する声楽家の一人。国立音楽大学教授、東京藝術大学名誉教授、現在聖徳大学客員教授。1970年、ザルツブルグ音楽祭特別賞、76年、ウィンナーワールドオペラ大賞ほか賞歴多数。その活動はオペラに留まらず、舞台、映画、ドラマと幅広い活躍を見せている。本作では百合子の父で、日本を代表する建築家でもあった中條精一郎役を演じる。








芳子&百合子とは?

湯浅芳子とは

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湯浅芳子は、1896年京都の裕福な商家に生まれた。17歳で上京し、日本女子大英文予科に入学するが、中退。ドストエフスキーをはじめとしたロシア文学に深く傾倒し、19歳から本格的にロシア語を学び始める。この頃、作家・田村俊子に惹かれ、愛するようになる。

誌編集者となった芳子は、24歳の時に出会った京都の芸妓・北村セイと恋愛し同居生活を送るが、別離。その後28歳の時(1924年)に、作家、野上弥生子の紹介で中條百合子と出会うことになる。出会ってすぐに惹かれ合った二人は、翌年から二人で共同生活をはじめ、その3年後の1927年、ソビエト・ロシア留学を決意し百合子も同行する。二人が留学から帰国したのは1930年11月。だが、帰国後まもなく、百合子は後の伴侶となる社会活動家、宮本顕治(後の共産党書記長)と出会う。1932年、百合子は芳子を捨てて顕治の元に走り、芳子と百合子の7年強にわたる愛も終わりを告げる。

芳子は、ゴーリキー、チェーホフなど多くのロシア文学を翻訳し、ロシア文学家、翻訳家として多くの業績を残す。代表作として知られるロシア童話「森は生きている」(サムイル・マルシャーク作)は、今も多くの子どもたちに愛され読み継がれている。エッセイ集に「いっぴき狼」「狼いまだ老いず」など。晩年は、浜松の老人ホームに滞在。1986年に、本映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』の原作者、沢部ひとみと出会い、沢部氏の取材により、その伝記『百合子、ダスヴィダーニヤ〜湯浅芳子の青春』が出版される(1990年2月)。沢部氏が書き上げた伝記を、氏による音読で聞いた湯浅は「ほんま、よう書けたなあ、まるで見てきたみたいやな」と語ったという。その後まもなく、1990年10月24日、93歳の生涯を閉じた。遺族によって『湯浅芳子賞』設立。外国戯曲の翻訳上演等の功績のあった団体個人へ賞が与えられた。(現在は終了)



宮本百合子とは

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宮本(中條)百合子は、1899年、建築家の父、中條精一郎と倫理学者西村茂樹の次女霞江の娘として生まれた。幼いころから才気煥発な娘だった百合子は、17才で初の小説『貧しき人々の群』を書き、坪内逍遥の推薦で中央公論に掲載される。本作は、幼いころから訪れていた祖父の家のある福島県の郡山で、目にした貧しい小作人たちの生活を描いたもので、発表時は「天才少女」として大きな注目を集めた。同年、日本女子大学英文予科に入学するが退学。19歳で父親と共に渡米、ニューヨークに一人残り留学生活を続ける。1919年現地で出会った15歳年上の古代東洋語研究家荒木茂と結婚。帰国する。その5年後の1924年、湯浅芳子と出会い『伸子』を書き始める。翌年、荒木と離婚。芳子と共同生活を始める。1927年から3年間、芳子と共にソビエト・ロシアに留学。ヨーロッパ旅行を経て帰国する。1930年、百合子は日本プロレタリア作家同盟に加入。プロレタリア文学運動に参加し、その過程で、文芸評論家で後に日本共産党書記長になる9歳年下の宮本顕治と出会う。1931年に日本共産党入党。1932年に芳子と別れ、宮本顕治と結婚する。その後まもなく、プロレタリア文化運動に加えられた弾圧のため、顕治は非合法活動を余儀なくされ、まもなくスパイ査問事件の主犯の疑いをかけられ検挙。二人の結婚は12年に及ぶ別居生活となる。

百合子は作家として獄中の顕治を支え続け、自身も4回にわたり検挙、投獄、執筆禁止などの弾圧を受けるが、転向せず作品を書き続けた。その間二人が交わした約900通の書簡は、百合子の没後『十二年の手紙』として出版されている。
戦後、顕治が釈放され、共産党の活動が再開されると、百合子はプロレタリア文学の第一人者として社会運動や執筆活動に精力的に取り組む。また、新日本文学会、婦人民主クラブ創立のために働き、戦後のオピニオンリーダーとして多数の講演を行い、評論、執筆活動を行った。
1947 年『伸子』の続編にあたる『二つの庭』を執筆、連載。引き続き、『道標』を書くが、体調を崩し療養。1951年『道標』第3部執筆後、髄膜炎菌敗血症により51歳で急死する。自伝的小説としては、『伸子』『二つの庭』『道標』のほかに『播州平野』『風知草』など。何度も全集が組まれ、最近のものは全33巻。小説8巻、評論、感想、小品等で11巻。その他、書簡、日記、秀作、覚書が網羅されている。その他、書簡集に『往復書簡 宮本百合子と湯浅芳子』(黒沢亜里子編)があり、二人の生活を辿りながら、生の声を聞くことができる。



浜野佐知インタヴュー

湯浅芳子と宮本百合子の物語を、映画化しようと思ったきっかけを教えてください。

原作と初めて出会ったのは、15年ほど前だったと思います。ある女性の作家から「これ、浜野監督にぴったりだと思うのよ」と手渡されたのが沢部ひとみさんの「百合子、ダスヴィダーニヤ」でした。最初は変なタイトルの本だなあ(笑)、とあまり興味を持てなかったんですが、読み進んで行くうちに湯浅芳子という人の鮮烈な生き方に夢中になっちゃったんですね。だって、大正から昭和という時代に「男が女を愛するように、女を愛する」と公言して生きたんですよ。あの時代にそんな生き方を貫くのは本当に大変なことだったと思います。
93歳の死の床で、「先生、淋しい?」と語りかけた沢部ひとみさんに、「淋しくはない。孤独だけれど淋しくはない。同じ魂の人間もいるし」と答えた芳子。私は、湯浅芳子の鮮烈な生き方に魂を奪われ、揺さぶられてしまったんです。この人のことを映画にしたい! まだ「レズビアン」という言葉もない時代に、自らのセクシュアリティに忠実に生きた湯浅芳子を、今を生きる全ての女性たちに知ってもらいたい!

湯浅芳子と宮本百合子、二人とも強烈な個性の持ち主ですね。

劇中の二人のセリフの多くは、二人が実際に交わした書簡の言葉が元になっています。芳子が百合子に送った手紙に「私はあなたによって良くされ、あなたも私によって良くされる。私はあなたを愛し、あなたの仕事を愛する」という言葉があります。それに対して百合子は、「私は、この愛がなんという名であろうとも、あなたの愛で、あなたという心の城を持って生きる」という返事を返すんですが、百合子、もうベタベタでしょ?(笑) ふたりの個性がはっきり表れている言葉だと思います。好きとなったら盲目的に突き進む百合子に対して、芳子はきちんとお互いを対等に見ている。互いの仕事を愛し、互いに高め合い、社会におもねることなく自己を貫き通す。そうした芳子の生き方に私はとても共感するんです。

芳子と百合子が別れた後、百合子は私小説『伸子』の続編『二つの庭』、『道標』で、芳子のことを不当におとしめるような書き方をします。けれども芳子はそれについて自ら語ることはなかったそうですね。

芳子は、百合子を愛し、百合子の裏切りにあった後も、「私は何人にも言わぬ。胸ひとつにおさめて黙る。しかしこのことは百年ののちに明らかにされていいことだ」と沈黙を貫いています。その潔さ。芳子は生涯百合子を愛したんだと思います。百合子が51歳で死んだとき、その追悼文に「生きたひとに逢いたかった。互いにもっと生きて逢いたかった」と書いているのですが、二人の愛を全否定するような百合子の裏切りに合ってなお百合子は生涯芳子の心の中に住んでいた。それは芳子にとってある意味無念の想いだったのかもしれない。だからこそ、私が今出来ることは、芳子の無念を、百年後の真実を映画として今に甦らせることだと思ったんですね。

愛に向かって貪欲に突き進む百合子のパワーにも圧倒されます。

百合子はとてもエネルギッシュで、怖いもの知らず。自分を信じて真っすぐに突き進んで行くパワーを持つ反面、世間知らずのお嬢様的な面もある。そういうアンバランスなところに荒木は惹かれたんじゃないかと思います。ほら、よくいるでしょ? 「こいつ、生意気だけど、俺が守ってやらなくちゃいけないんだ」っていう勘違い男(笑)。でも私、案外、荒木、好きなんですよ(笑)。沢部さんの原作でも陰陰滅滅の根暗な男として描かれているし、芳子からは「何であんな男に惚れたんだ」とか言われちゃうし......(笑)。だけど、今時だってあんな夫、そうそういませんよ。妻の自由を認めて、好きなことをやらせて、ひたすら百合子の帰りを待って、帰ってきたら、喜び勇んで食事を作って(笑)。だけど、百合子には物足りない。百合子に必要なのは、自分を伸ばしてくれる人、自分にとっての肥やしになる人。映画の最初で、百合子が荒木に向かって、「私、あなたに喰われているような気持ち」と言うセリフがあるのですが、「おいおい、喰ってるのは、百合子、あんただろう」って......(笑)。

百合子の悩みは現代を生きる働く女性の悩みにも通じますね。

百合子の閉塞感も分かるんです。いい仕事をしたい、社会の中で女が行きつけない高みに昇りつめたい。そんな百合子にとって家庭は足枷でしかない。結婚は自分の伸びていくエネルギーを塞ぐシステムでしかなかったんですね。百合子のセリフで、「日本には妻や母という位置に引っ張られて、自分の仕事を半分にし、しかも両方への愛着を口にしながら生活している女は無数にいる」というのがあるんですが、これは現代の女性が抱えている問題そのものですよ。百合子の時代から百年近くたってなお何も解決していない。以前、中学生女子に講義した時、「仕事と家庭ってどうやって両立するんですか?」と質問されました。彼女たちにとっては、両立がゴールなんですね。両立させることが女が自分らしく生きることだと思っている。思わず「両立なんて考えなくていい!」と怒鳴っちゃいましたけど(笑)。

菜葉菜さんと一十三十一さん、二人の女優さんは、その個性を見事に演じてくれていますね。

菜葉菜さんは、芳子という人物をとてもよく理解して表現してくれたと感じています。映画というのは、さまざまなシーンを撮ってそれを後でつないでいくものなのですが、菜葉菜さんはその温度の違うシーンひとつひとつをばらばらに演じながらも、芳子の孤高さを非常によく表現してくれていました。一十三十一さんは本来は歌手で、お芝居は初めてなのですが、勝ち気で魅力的な百合子のイメージに本当にぴったりな方で、わたしが無理をしてお願いしました。一十三十一さんご本人もおっしゃっていましたが、彼女は性格も百合子と似ているそうで(笑)、現場で日を追う毎に一十三さんが百合子そのものになっていく感じがとても興味深かったです。一十三さんが生まれながらに持つお姫さまのようなパワーが、百合子の傲慢さや、愛する相手に全身で寄りかかっていく甘えをよく表していたと思います。
それがあるから孤独とトラウマを抱えた芳子の苦悩を演じた菜葉菜さんの深い表現がより引き立ったように思いますね。この二人はどちらが欠けても駄目なんです。菜葉菜さんと一十三さん、芳子と百合子が乗り移ったかのような二人を見ていると、私は何だか感動して涙ぐみそうになってしまったくらいです(笑)。

この映画で描かれる彼女たちの生き方は、監督ご自身の生き方にも通じるように思えます。

私にとって、「生きること」はイコール「自由であること」なんですね。誰にも束縛されず、生きたいように自由に生きる。だけど、「自由」というのはイコール「孤独」でもあるんです。真の自由は孤独と引き換えでないと得られない。今年で40年映画監督をやっていますが、監督という職業は、ものすごく孤独なんですよ。現場では何十人ものスタッフに囲まれて、君臨しているかのようですけど(笑)、だからこそ誰も頼れないし、誰も助けてくれない。全てのリスクを背負って決断し続けなければならないのは結構怖い(笑)。そういう人生をずっと歩いてくると、人の心の深い深いところにある、うまく言えないけど、どこか宇宙的なものに惹かれていくんですね。心の奥の奥に、その人以外は誰も立ち入れない静謐な湖があるような、そうした人の心のスピリットを映像にしたいと思うんです。『こほろぎ嬢』(2006年・尾崎翠原作)の時もラストに「宇宙にあまねく存在するすべての孤独な魂へ」という言葉を添えたんですが、孤独な魂というものは、決して寂しくも悲しくもない、真に自由で凜とした魂のことだと思うんですね。そして湯浅芳子にも私は同じ魂を感じるんです。芳子は明治29年生まれですが、実は、私が今までに映画化した尾崎翠(『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』『こほろぎ嬢』)も同じ年生まれなんですね。翠もまた、時代に左右されない自由な作品を書き、生涯独身を貫くなど、あの時代の女性としては桁外れな生き方をした人でした。私はどんな時代でも社会から押し付けられるものをぶち壊し、自由に、自分らしく生きた人に惹かれるんですね。

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〜ロケ地を振り返る〜 Photo Essay

第一回・加茂荘との出会い

映画制作において最も重要な事はロケ地選びである。
特に『百合子、ダスヴィダーニヤ』では芳子と百合子が出会い、共に生きた大正から昭和初期という時代を再現できる土地や建物を探さなければならない。大正時代というのは、特に時代考証が難しい時代で、小道具一つにしても富裕層には入っていたが、庶民生活にはまだなかった、というような細かい考証が必要なのだ。特にオープン関係(外撮り)では、電柱はもちろん、コンクリートもダメ、ブロック塀もダメ、アルミサッシもダメ、と映せないものばかりで、現代日本の中で大正時代の風景を切り取るのは至難の技だ。

ロケ地を探し始めてしばらくたったころ、静岡県・沼津市のハリプロ映像協会というFC(フィルムコミッション)主催のロケ地ツアーがあり、私はそれに参加した。もともと静岡は私の育った土地でもあり、原作者の沢部ひとみさんは御前崎市出身、主人公の湯浅芳子は浜松市で没、と『百合子、ダスヴィダーニヤ』には縁のある土地だが、映画の舞台は福島県安積・開成山の開拓地だ。温暖な静岡での撮影は考えていなかったのだが、このツアーに参加して、目を見開かされた思いだった。

時代を感じさせる建物、手つかずで残された自然、もしかしたら静岡全県を視野に入れれば、ロケ地となるような素晴らしい場所、素晴らしい建造物があるのではないか? そこで、静岡各地のFCに協力を依頼し、静岡東部(沼津市、熱海市、三島市、函南市)、静岡西部(島田市、掛川市、浜松市)などをロケハンして回った。
そして、掛川市にある加茂荘と出会ったのである。


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江戸時代中期の安永2年(1773年)から続く庄屋屋敷。
メインセットである百合子の祖母が住む安積・開成山の屋敷として撮影。

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芳子は開成山の百合子を度々訪ね、二人の愛を高め合っていく。



第二回・いよいよクランクイン

2010年10月3日、『百合子、ダスヴィダーニヤ』はクランクインを果たした。
「男が女を愛するように、女を愛する」と公言して生きた芳子。百合子を愛し、百合子の裏切りにあった後も、「私は何人にも言わぬ。胸一つにおさめて黙る。しかし、このことは百年後に明らかにされていいことだ」と沈黙を貫いた芳子。
沢辺ひとみさんのノンフィクション「百合子、ダスヴィダーニヤ」と出会ってから14年、百合子が芳子と暮らした家を出て宮本顕治と結婚した1932年から78年を経た映画化だった。

クランクイン初日のロケ地は静岡県・島田市にある北河製品所。
大正時代からの事務所の表を郵便局にみたて、芳子が百合子に電報を打つシーンを撮影。「ユカレヌ ユルセ ヨシコ」この電報が本作のトップカットとなった。続いて、事務所内部を芳子が編集長を務める「愛国婦人」の編集室として撮影した。


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郵便局から出てくる芳子(菜葉菜さん)の撮影風景。郵便局員には島田FCの清水さんがエキストラ出演。

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大正末期の雑誌編集室の雰囲気を醸し出す北河製品所内部。
編集部員役は島田FCが集めてくれたエキストラの皆さん。


翌日からの2日間は島田市博物館分館で芳子の部屋の撮影。
芸者セイ役の麻生花帆さんの弾く三味線の音が深夜の島田の町に響いた。

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分館の2階に部屋のセットを作り、1階はメイクルームや衣裳部屋として使用。
東京藝術大学大学院で邦楽囃子を専攻し、
三味線音楽では初の邦楽博士号を習得した麻生花帆さんは自前の三味線を持って撮影に参加してくれた。



第三回・大井川鐵道×天竜浜名湖鉄道

芳子に会いたい一心で汽車に飛び乗る百合子(一十三十一さん)、百合子と芳子の女同士の関係に気づいて矢も楯もたまらず百合子の元に駆けつける夫の荒木(大杉漣さん)。
百合子、芳子、荒木の三人は東京と百合子の祖母が住む福島県の安積・開成山の間を往復しながら異性愛と同性愛の交錯する葛藤を繰り広げるが、その重要なシーンとなる蒸気機関車の走行と車内のシーンを大井川鐵道で撮影し、SLが到着する郡山駅のホームと駅舎前を天竜二俣駅で撮影した。

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大井川鐵道を走る威風堂々のSL。1998年の『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』にもこのSLが登場。
車内で戦時中に雑巾を売りに行く尾崎翠(白石加代子さん)を撮影したのも懐かしい思い出だ。
芳子への想いを秘めて蒸気機関車に揺られる百合子。


天竜二俣駅ではエキストラの皆さんが大勢参加してくれ、賑やかな撮影となったが、当時の着物の着付けや化粧で衣裳さん、ヘアメイクさんは大忙しだった。

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夜間撮影だったが、照明部さんは5人がかりで朝9時からセッティング。
ホームではスモークを焚いて今まさにSLが発車したような雰囲気を出した。


駅前から百合子と芳子が乗る人力車シーンでは掛川城前で営業している人力車掛川組が出張、昼夜に亘って大活躍してくれた。

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開成山の開拓地を走る人力車。実際は加茂荘前の道で撮影した。
人力車をトラックに乗って併走する撮影隊。



第四回・メインセットの加茂荘へ

掛川市にある加茂荘では連続5日間に亘っての撮影が行われた。
加茂荘は江戸時代中期の安永2年(1773年)から続く庄屋屋敷で、その内部は全て江戸時代のもので囲まれ、襖や柱、床、庭の苔など、万が一にも傷つけてしまったら取り返しがつかないものばかり。
制作部はカバーの為に周辺市町村のホームセンターで養生シートを買い占め、気遣いと疲労と深夜まで及ぶ撮影でスタッフがバタバタと倒れる、という過酷な撮影となったが、加茂荘&掛川花鳥園専務の加茂智子さんが度々撮影隊に温かい豚汁を差し入れしてくれ、食事だけがスタッフたちの憩いの時間となった。
俳優部は掛川市のビジネスホテルに分宿、スタッフは市街地から遠く離れた島田市野外活動センター「山の家」で合宿し、深夜に制作車が狸をはねて、運転していた助監督さんが供養で頭を丸めるエピソードも。

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百合子から別れの電報が届き、慌てて開成山の祖母の家に駆けつける荒木(加茂荘玄関前)。


「これは女同士の友愛か、それとも恋愛か。」
百合子と芳子は開成山に住む祖母・中條運(大方斐紗子さん)の家で、自分たちの関係について精魂傾けて討論し、お互いを高めあい、お互いの愛を深めていく。
だが、百合子に執着する古代ペルシア語研究者の夫・荒木茂は、妻を引き戻そうと懸命の努力を試みる。

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芳子と百合子を初め女優陣が着る着物は、NPO法人京都古布保存会から提供された
明治・大正期の本物の着物で、演じる女優さんたちにも気合いが入った。


10月3日から12日まで10日間休みなしで続いた静岡県西部での撮影が終わり、撮影隊はいよいよ静岡県東部に移動することに。
だが、その移動日も午前中加茂荘で撮影してから伊豆の国市畑毛温泉の宿舎・民宿西館にロングドライブという慌ただしいものだった。

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写真右から一十三十三さん、大杉漣さん、浜野監督、大方斐紗子さん。



第五回・熱海市

10月13日に掛川の加茂荘から伊豆の国市まで移動した撮影隊は休む間もなく東部での撮影に備えた。
東部での最初の撮影は、大正8年建築の熱海市指定有形文化財でもある起雲閣の一室を百合子の父母が住む家として撮影した。百合子の母、中條葭江(よしえ)役は吉行和子さん、父、中條精一郎役には日本を代表するオペラ歌手の平野忠彦さんと豪華な役者陣が熱海入りした。

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文化財での撮影は気苦労も多いが、
セットでは絶対にかなわない時代の息吹が感じられて重厚な絵を作る事が出来る。


吉行和子さんと一十三十一さん(百合子)の母娘がワインを飲みながら語り合う長丁場をワンシーン・ワンカットで撮影したが、吉行さんの口から語られる大正時代のセリフ回しは実に見事なものだった。

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スタッフたちが固唾を飲んだワンシーン・ワンカットの撮影も二人の息のあった掛け合いで一発OKとなった。


続いて、熱海市にある旅館の別邸である西紅亭(せいこうてい)の2階を百合子と夫の荒木が暮らす青山の家という設定で撮影。
ここでの主役は百合子と荒木はもちろんだが、2羽の小鳥が重要な役どころを演じる。
別れを切り出す百合子に激高した荒木が2羽の小鳥を空に放す、とそのうちの1羽が戻ってきて、「ああ、鳥でさえ帰ってくるのに、君は、君は・・」と嘆くシーン。小鳥は制作部が6羽の十姉妹を用意、そのうちの2羽を放して、別の小鳥で戻ってきたように見せたのだが、なんと翌日、本当に空に放した小鳥が1羽戻ってきたのだ。これにはスタッフもびっくり!

西紅亭.jpg 西紅亭2.jpg

本格的な茶室を備えた瀟洒な建物。亀裂を深めていく百合子と荒木。
二人の間の柱で心理的懸隔をシンボリックに表現することが出来た。



第六回・静岡県東部から再び西部へ

10月16日、撮影隊は函南町の宿舎から再び掛川市の加茂荘に遠征。
人力車が走る「荒野」を東部でも探したのだが、大正末期の荒野となると、かなりの奥地となり、機材の運搬などを考えると時間的な余裕もない。最終的には加茂荘の前に広がる加茂花菖蒲園の山側を使って撮影することになったのだった。
人力車を引いているのは掛川城の前で実際に営業している本物の車夫さんで、人力車持参で協力してくれた。感謝!

夜の人力車.jpg ナイトオープン撮影風景.jpg

芳子と百合子の関係に気づき、覚悟を決めて開成山に向かう荒木。
島田FCの清水さんが手配してくれた高所作業車で人力車が走る荒野の道と周辺の山裾を照明。


開成山に住む祖母役の大方斐紗子さんは福島県出身で、古い方言指導でもご協力頂いたが、なんと、人力車の車夫の声も大方さん!

人力車に乗る芳子.jpg

人力車で帰る芳子を百合子と祖母が見送る。


加茂荘前での人力車の撮影は深夜に及び、宿舎の畑毛温泉に戻ったのは翌日の早朝だったが、休む間もなく撮影隊は静岡市に出発。「旧マッケンジー邸」に向かった。
昭和15年に建築された洋館で、国登録文化財。百合子と荒木が出会ったニューヨーク時代の回想やコロンビア大学の研究室、女子学習院での授業風景などを撮影した。ニューヨークまでロケする資金も時間も無かった撮影隊には実にありがたいロケセットだったが、国の登録文化財だけあって撮影にお借りするには困難が多々あり、映画のロケを担当してくれた静岡市役所のシティプロモーション課の懸命の努力でなんとか撮影にこぎ着ける事が出来た。本当にお世話になりました。

マッケンジー邸内部.jpg マッケンジー邸記念写真.jpg

大正時代の衣裳を身につけた女性エキストラの皆さんの前で迫真の演技を見せる大杉漣さん。
マッケンジー邸の庭でスタッフ、キャスト揃っての記念撮影。



第七回・伊豆の国市&沼津市

10月19日からは静岡県東部を移動しながらの忙しい撮影が始まった。
一番手は伊豆の国市の中川家住宅。戦前に文化人や芸術家の別荘村として構想されたうちの一軒で、国登録有形文化財に指定されている。
この中川家住宅には中川さんご夫妻が普通に生活されているのだが、ロケハン時に思いがけないことが起こった。静岡ロケに最初から最後まで帯同してくれた函南町に本拠を置くFC「花道ファクトリー」の土屋学さんが紹介してくれたのだが、なんと女主人が私の中学の同級生だったのである。この奇遇によって全面的な協力が得られたことは言うまでもない。
中川家住宅は野上弥生子邸として撮影し、百合子と芳子が初めて出会うシーンや、愛や性についてディスカッションする大事なシーンを撮る事が出来た。
野上弥生子役で洞口頼子さんが登場、大正時代の着物がよく似合い、スケールの大きい知性派作家の風格と中川家住宅の風格がぴったりとマッチした。

中川家住宅.jpg 百合子と芳子の出会い.jpg

野上弥生子は百合子の先輩小説家として親しく付き合っていたが、この日訪ねて来た芳子を紹介し、
二人は急速に親しくなっていく。運命的な出会いだった。


翌10月20日は沼津市の「千本松・沼津倶楽部」にある大正時代に作られた数寄屋造りのサンルームを使ったレストラン「ヴィーア・サクラ」で終日撮影。沼津市に住んでいてもなかなか訪れる機会のないセレブ用の施設とのことだったが、今回撮影出来たのは、沼津のFC「フィルム微助人(びすけっと)」を中心に沼津市や沼津商工会議所が展開する「さぁ来い、ハリウッド!大作戦〜ロケでまちが元気になるプロジェクト」(通称“ハリプロ”)の紹介によるもの。せっかく「さあ来い、ハリウッド!」と呼びかけているのに我々のような貧乏撮影隊が押しかけて恐縮だったが、ハリプロの皆さんには炊き出しからエキストラの手配まで本当にお世話になりました。

沼津倶楽部.jpg

早朝から深夜まで心置きなく撮影させてくれた沼津倶楽部さんに心から感謝!



第八回・畑毛温泉からシベリア鉄道へ

10月21日、午前中はスタッフの合宿所である畑毛温泉の民宿・西館の別館を芳子の家の表周りと玄関として撮影。室内はすでに島田市博物館分館で撮っているのだが、玄関の出入りと階段を上がるまでをここで撮影し、階段を上がって部屋に入るところから遠く島田市の博物館分館に繋がる。映画のマジックだが、それも建築の様式が似ているからこそ出来ることなのだ。

民宿西館.jpg

荒木と百合子の家から百合子がやっと帰ってきた時のシーン。待ちかねた芳子が百合子を迎える。
この階段を駆け上った2階の部屋(島田市博物館分館)で百合子の不実をなじる芳子の怒りが爆発する。


午後からは、函南町の荻原金型倉庫に作ったシベリア鉄道のセットで、釜山・ハルピン経由でモスクワに向かう芳子と百合子のシーンを撮影。シベリア鉄道のセットといっても一車両を作る事は出来ないので、コンパーメントの室内だけを作り、走る列車の窓外の吹雪は発泡スチロールを細かく砕いた粉を扇風機で送って表現した。

シベリア鉄道.jpg

もともと美術部の倉庫としてお借りした2階をスタジオとして使わせて頂いた。
美術部の労作だったが、翌朝、ポスター撮りをここで行ったときには、既に跡形もなく消えてしまっていた。


希望を抱いて向かったソビエト留学。民間の日本女性としてはこの二人が初めてだったが、帰国後、プロレタリア文学運動に邁進する百合子と、一歩距離を置く芳子に決定的な別れが待っていた。

二人の別れ.jpg

芳子と百合子が3年間のソビエト留学から帰った後に訪れた、
無残な別れのシーンを、千本松・沼津倶楽部の数寄屋造りの一室で撮影。


夜になってもまだまだ撮影は続いた。夕方からは沼津に移動し、文光堂印刷で芳子が雑誌「愛国婦人」の出張校正をしているシーンを撮影。大正・昭和初期には活版印刷が主流だったが、今でも活版の印刷機と活字を使っている印刷会社は少ない。静岡県内をくまなく探し、出会ったのが文光堂印刷さんだった。ここでは戦前にも使われた手差しの活版印刷機があり、現役で使われていた。

文光堂印刷.jpg 文光堂印刷2.jpg

手差しの印刷機を操作しているのは実際にこの会社で活版印刷機を担当している職人さん。
手差し印刷の職人さんなら手がインクで汚れているのではないかと思ったが、
「それは下手な証拠」で、上手な職人さんなら手を汚したりはしないのだとか。



第九回・クランクアップ!

10月22日、ついにクランクアップの日を迎えた。撮影隊は早朝6時半に畑毛温泉の宿舎を出発し、日本百景の一つで「伊豆の瞳」と呼ばれている一碧湖に向かって出発した。
薄曇りの空の下、美しい湖畔を芳子と百合子が歩くシーン。お互いの愛を確信する二人。
百合子を見つめる芳子の瞳から涙が溢れ、「今、二人はぴったり合わさった二人だと思う」という芳子に、「ワンダフルだわ」と答える百合子。私が一番撮りたかったシーンだ。

一碧湖.jpg

福島県・猪苗代湖の湖畔として撮られたのだが、猪苗代湖の実景と全く違和感なく繋がった。
大正時代が舞台なので、戦後の人工物が見えては撮れない。
祈るような気持ちだったが、湖の奥の方に静謐な一帯があった。

猪苗代湖.jpg

猪苗代湖。静岡ロケ終了後、演出部と撮影部は猪苗代湖に向かい、3日間に亘って湖畔や磐梯山の実景撮り。


続いて撮影隊は熱海市の石坂浪漫という名のついた石畳の道に移動。有名な別荘などが点在する坂道だが、電柱などは美術部がよしずで隠したりしてなんとか大正時代の雰囲気を作ることが出来た。

熱海市坂道.jpg

石畳の坂道を百合子が歩いてくるカットでオールアップ!


10月3日のクランクインから約3週間、島田市の北河製品所から始まった『百合子、ダスヴィダーニヤ』のロケは静岡県内を東進し、ついに熱海市でクランクアップを迎えたのだった。

クランクアップ!.jpg

過酷な撮影を乗り切った菜葉菜さん(芳子)と一十三十一さん(百合子)も晴れ晴れとした表情だ。



第十回・番外編

映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』は、2010年1月、「ハリプロ映像協会」(沼津市)主催のロケ地ツアーから始まった。このツアーで出会ったのが、フィルムコミッション「微助人(びすけっと)」の金子恭子さん、「花道ファクトリー」の土屋学さん、そして後に「支援する会・静岡」を立ち上げてくれた石垣詩野さんだ。
ロケハンが始まってからは、県東部を金子さん、伊豆方面を土屋さん、県西部はフィルムサポート島田の清水さんが中心となって、ロケ地を探し、ロケセットと交渉し、宿舎やお弁当の手配から炊き出しまで地元ならではの強みで協力体制を敷いてくれた。

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「フィルムサポート島田」が交渉してくれた加茂荘(掛川市)は、本作のメインセットとして登場。
共に仕事をする芳子と百合子のシーンを撮影。

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撮影隊の宿舎・野外活動センター山の家(島田市)近くの大井川河川敷で芳子と百合子が散歩するシーンを撮影。

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「花道ファクトリ−」が交渉してくれた茶懐石亭・西紅亭(熱海市)で、別れを切り出した百合子を必死で引き留めようとする荒木のシーンを撮影。
花道ファクトリー代表の土屋学さんはロケ初日から最終日まで、撮影隊と寝食を共にして役者の送り迎えやメイキングの撮影など、スタッフの一員として協力してくれた。


「支援する会・静岡」はマスコミへの告知や取材対応、ポスターのデザイン・制作などに力を発揮してくれた。ポスター撮影は、函南町の倉庫に朝6時半という無茶なスケジュールにもかかわらず、石垣詩野さんとデザイナーの利根川初美さんは静岡市から、カメラマンの小川博彦さんは掛川市から駆けつけてくれ、メインヴィジュアルとなる素晴らしいポスター写真を撮影してくれた(利根川初美さんは、パンフレットのデザインも担当)。

ポスター.jpg

「この愛がなんという名であろうとも、あなたの愛で、あなたという心の城をもって生きる」(中條百合子)
 「私はあなたによって良くされ、あなたは私によって良くされる。私はあなたを愛し、あなたの仕事を愛する」
                                             (湯浅芳子)


2010年10月、約1ヶ月間に亘って静岡各地でロケをした『百合子、ダスヴィダーニヤ』だったが、今振り返って、静岡で撮影したことが映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』に力を与えてくれたと思う。支援してくださった静岡各地の皆さま、そして、資金集めに奔走してくれた「支援する会・東京」(代表・カドカチェトリ順)のメンバーにも心から感謝している。

実在の二人.jpg

「淋しくはない。孤独だけれど淋しくはない。同じ魂の人間もいるし」
 湯浅芳子(右)・1990年、浜松ゆうゆうの里(浜松市)で没(93歳)
宮本百合子(左)・1932年、宮本顕治と結婚。1951年、没(52歳)