湯浅芳子と宮本百合子の物語を、映画化しようと思ったきっかけを教えてください。
原作と初めて出会ったのは、15年ほど前だったと思います。ある女性の作家から「これ、浜野監督にぴったりだと思うのよ」と手渡されたのが沢部ひとみさんの「百合子、ダスヴィダーニヤ」でした。最初は変なタイトルの本だなあ(笑)、とあまり興味を持てなかったんですが、読み進んで行くうちに湯浅芳子という人の鮮烈な生き方に夢中になっちゃったんですね。だって、大正から昭和という時代に「男が女を愛するように、女を愛する」と公言して生きたんですよ。あの時代にそんな生き方を貫くのは本当に大変なことだったと思います。
93歳の死の床で、「先生、淋しい?」と語りかけた沢部ひとみさんに、「淋しくはない。孤独だけれど淋しくはない。同じ魂の人間もいるし」と答えた芳子。私は、湯浅芳子の鮮烈な生き方に魂を奪われ、揺さぶられてしまったんです。この人のことを映画にしたい!
まだ「レズビアン」という言葉もない時代に、自らのセクシュアリティに忠実に生きた湯浅芳子を、今を生きる全ての女性たちに知ってもらいたい!
湯浅芳子と宮本百合子、二人とも強烈な個性の持ち主ですね。
劇中の二人のセリフの多くは、二人が実際に交わした書簡の言葉が元になっています。芳子が百合子に送った手紙に「私はあなたによって良くされ、あなたも私によって良くされる。私はあなたを愛し、あなたの仕事を愛する」という言葉があります。それに対して百合子は、「私は、この愛がなんという名であろうとも、あなたの愛で、あなたという心の城を持って生きる」という返事を返すんですが、百合子、もうベタベタでしょ?(笑) ふたりの個性がはっきり表れている言葉だと思います。好きとなったら盲目的に突き進む百合子に対して、芳子はきちんとお互いを対等に見ている。互いの仕事を愛し、互いに高め合い、社会におもねることなく自己を貫き通す。そうした芳子の生き方に私はとても共感するんです。
芳子と百合子が別れた後、百合子は私小説『伸子』の続編『二つの庭』、『道標』で、芳子のことを不当におとしめるような書き方をします。けれども芳子はそれについて自ら語ることはなかったそうですね。
芳子は、百合子を愛し、百合子の裏切りにあった後も、「私は何人にも言わぬ。胸ひとつにおさめて黙る。しかしこのことは百年ののちに明らかにされていいことだ」と沈黙を貫いています。その潔さ。芳子は生涯百合子を愛したんだと思います。百合子が51歳で死んだとき、その追悼文に「生きたひとに逢いたかった。互いにもっと生きて逢いたかった」と書いているのですが、二人の愛を全否定するような百合子の裏切りに合ってなお百合子は生涯芳子の心の中に住んでいた。それは芳子にとってある意味無念の想いだったのかもしれない。だからこそ、私が今出来ることは、芳子の無念を、百年後の真実を映画として今に甦らせることだと思ったんですね。
愛に向かって貪欲に突き進む百合子のパワーにも圧倒されます。
百合子はとてもエネルギッシュで、怖いもの知らず。自分を信じて真っすぐに突き進んで行くパワーを持つ反面、世間知らずのお嬢様的な面もある。そういうアンバランスなところに荒木は惹かれたんじゃないかと思います。ほら、よくいるでしょ? 「こいつ、生意気だけど、俺が守ってやらなくちゃいけないんだ」っていう勘違い男(笑)。でも私、案外、荒木、好きなんですよ(笑)。沢部さんの原作でも陰陰滅滅の根暗な男として描かれているし、芳子からは「何であんな男に惚れたんだ」とか言われちゃうし......(笑)。だけど、今時だってあんな夫、そうそういませんよ。妻の自由を認めて、好きなことをやらせて、ひたすら百合子の帰りを待って、帰ってきたら、喜び勇んで食事を作って(笑)。だけど、百合子には物足りない。百合子に必要なのは、自分を伸ばしてくれる人、自分にとっての肥やしになる人。映画の最初で、百合子が荒木に向かって、「私、あなたに喰われているような気持ち」と言うセリフがあるのですが、「おいおい、喰ってるのは、百合子、あんただろう」って......(笑)。
百合子の悩みは現代を生きる働く女性の悩みにも通じますね。
百合子の閉塞感も分かるんです。いい仕事をしたい、社会の中で女が行きつけない高みに昇りつめたい。そんな百合子にとって家庭は足枷でしかない。結婚は自分の伸びていくエネルギーを塞ぐシステムでしかなかったんですね。百合子のセリフで、「日本には妻や母という位置に引っ張られて、自分の仕事を半分にし、しかも両方への愛着を口にしながら生活している女は無数にいる」というのがあるんですが、これは現代の女性が抱えている問題そのものですよ。百合子の時代から百年近くたってなお何も解決していない。以前、中学生女子に講義した時、「仕事と家庭ってどうやって両立するんですか?」と質問されました。彼女たちにとっては、両立がゴールなんですね。両立させることが女が自分らしく生きることだと思っている。思わず「両立なんて考えなくていい!」と怒鳴っちゃいましたけど(笑)。
菜葉菜さんと一十三十一さん、二人の女優さんは、その個性を見事に演じてくれていますね。
菜葉菜さんは、芳子という人物をとてもよく理解して表現してくれたと感じています。映画というのは、さまざまなシーンを撮ってそれを後でつないでいくものなのですが、菜葉菜さんはその温度の違うシーンひとつひとつをばらばらに演じながらも、芳子の孤高さを非常によく表現してくれていました。一十三十一さんは本来は歌手で、お芝居は初めてなのですが、勝ち気で魅力的な百合子のイメージに本当にぴったりな方で、わたしが無理をしてお願いしました。一十三十一さんご本人もおっしゃっていましたが、彼女は性格も百合子と似ているそうで(笑)、現場で日を追う毎に一十三さんが百合子そのものになっていく感じがとても興味深かったです。一十三さんが生まれながらに持つお姫さまのようなパワーが、百合子の傲慢さや、愛する相手に全身で寄りかかっていく甘えをよく表していたと思います。
それがあるから孤独とトラウマを抱えた芳子の苦悩を演じた菜葉菜さんの深い表現がより引き立ったように思いますね。この二人はどちらが欠けても駄目なんです。菜葉菜さんと一十三さん、芳子と百合子が乗り移ったかのような二人を見ていると、私は何だか感動して涙ぐみそうになってしまったくらいです(笑)。
この映画で描かれる彼女たちの生き方は、監督ご自身の生き方にも通じるように思えます。
私にとって、「生きること」はイコール「自由であること」なんですね。誰にも束縛されず、生きたいように自由に生きる。だけど、「自由」というのはイコール「孤独」でもあるんです。真の自由は孤独と引き換えでないと得られない。今年で40年映画監督をやっていますが、監督という職業は、ものすごく孤独なんですよ。現場では何十人ものスタッフに囲まれて、君臨しているかのようですけど(笑)、だからこそ誰も頼れないし、誰も助けてくれない。全てのリスクを背負って決断し続けなければならないのは結構怖い(笑)。そういう人生をずっと歩いてくると、人の心の深い深いところにある、うまく言えないけど、どこか宇宙的なものに惹かれていくんですね。心の奥の奥に、その人以外は誰も立ち入れない静謐な湖があるような、そうした人の心のスピリットを映像にしたいと思うんです。『こほろぎ嬢』(2006年・尾崎翠原作)の時もラストに「宇宙にあまねく存在するすべての孤独な魂へ」という言葉を添えたんですが、孤独な魂というものは、決して寂しくも悲しくもない、真に自由で凜とした魂のことだと思うんですね。そして湯浅芳子にも私は同じ魂を感じるんです。芳子は明治29年生まれですが、実は、私が今までに映画化した尾崎翠(『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』『こほろぎ嬢』)も同じ年生まれなんですね。翠もまた、時代に左右されない自由な作品を書き、生涯独身を貫くなど、あの時代の女性としては桁外れな生き方をした人でした。私はどんな時代でも社会から押し付けられるものをぶち壊し、自由に、自分らしく生きた人に惹かれるんですね。
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