海外映画祭報告

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インド・チェンナイ=3rd Womens Film Festival in India (Chennai)にて上映
2010年3月1日(月)〜3月8日(月)

フィルムのみの参加


KIN International Women's Film Festival (アルメニア・エレバン)
2005年12月1日−12月5日

フィルムのみの参加


JAPAN: RISING (アメリカ) 2003年9月20日-11月9日
 フロリダのパームビーチ現代芸術研究所主催の日本映画シリーズで上映。
 フィルムだけの参加。
 他には「ラブ・レター」(岩井俊二)、「絵の中のぼくの村」(東陽一)、「菊次郎の夏」(北野武)等、7本 の作品が上映された。

台湾国際女性映画祭(台湾) 2002年9月13日-9月20日
 ドイツのモニカ・トゥルート監督と共に浜野佐知特集が組まれ、『百合祭』との2本上映。
 両作品に出演している吉行和子さんも招待され、美しい着物姿が大人気に。
 ピンク映画も大学や台北のゲイタウンで上映され、同時通訳のヨウさんが、カラミのセリフに照れながらも果敢に通訳してくれた。


ウィメンズ・フィルム・フェスティバル in ソウル(韓国)
2001年4月15日-4月22日
 女たちのパワーが漲り、実に熱い熱い女性映画祭。フェミニズムもレズビアニズムもアカデニズムも一体となって、燃え上がっている。
深夜のパーティには、「フェミニストの夜」とか「レズビアンの夜」とかの名前がつけられ、レズビアン歌手の歌に熱狂し、渾然一体となって、飲んで踊って、語り合う刺激的な夜が続く。上映時は、熱心にメモを取りながら観ている梨花大学の女子学生が多く、レポート提出を義務づけられているのだとか。
日本からは山上千恵子監督も参加。アメリカの女性監督バーバラ・ハマーと再会。

日仏女性研究シンポジウム「権力と女性表象--日本の女性たちが発言する--」・「映画の夕べ」(フランス)
2000年12月1日
 パリ日本文化会館で開催された日仏会館&日仏女性研究学会主催のプレイベントとして上映。
 上映後、浜野監督とクレティユ国際女性映画祭委員長のジャッキー・ビュエさんとの対談も行なわれて大いに盛り上がった。
 この映画は、パリで評価が高いことを改めて実感する。コーディネーターは、東洋大学教授、棚沢直子さん。

コロラド大学ボールダー校&ロッキー・マウンテン・フィルムセンター
「インターナショナル・フィルムシリーズ」/上映&トーク(アメリカ)
2000年10月4日-10月7日
 上映後、東アジア言語文明学科主催の学会「ウーマン・ジャパニーズ・フィルムメーカーズ」で、浜野監督と塚本靖代さん(東大大学院)が、映画および尾崎翠について発表。堀ひかりさん、溝口彰子さんなどの研究者の発表の後、バーバラ・ハマー監督も加わり、有意義で楽しい滞在となる。
日本からは河瀬直美監督も参加。

クレティーユ国際女性映画祭(フランス) 2000年3月28日-4月2日
フィナーレで、世界の
女性監督たちが壇上に。
実行委員長の
ジャッキー・ブエさんが、
記録用のインタビューをしてくれた。
CD-ROM の取材チームと。
浜野監督の隣りは津田桜さん。

 世界の第一線の女性監督たちと間近に交流し、それぞれ自負心を持って出品した作品を競い合う。なんと心の震える日々を経験したことでしょう。国際的な女性映画祭として、今年で22年目の歴史を持ち、わたしたち女性映画人の目標となっているのが、パリ郊外で開かれるクレティーユ国際女性映画祭です。今年も3月24日から4月2日まで開催されましたが、コンペ部門に『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』が選ばれ、わたしも参加してきました。
 クレティーユは、パリから地下鉄で南下した終点の市で、美しい湖と駅を中心に広がる住宅地です。この映画祭は、実行委員長を務めるジャッキー・ブエさんを中心に運営されてきましたが、彼女はこの功績によって今年フランス政府から表彰されるそうです。
 今回のコンペ部門の正式出品作は、長編フィクションが10本、長編ドキュメンタリーが10本、短篇が30本ですが、地中海特集やその他世界の女性監督作品を集め、総計百本を越える映画が上映されました。
 『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』は、都合3回の上映と、2回の観客とのディスカッションが行なわれました。それ以外にも、パリ市内のインターネット局でのインタビューや、CD-ROMの取材などもあり、多くの人が関心を寄せてくれたと思います。
 これまで海外では、ドイツのドルトムントやベルリン、エジプトのアレキサンドリア、ニューヨークなどで、この作品を上映してきましたが、一般的な傾向としては、多数派が「三部構成が分かりにくい」「難解だ」と言う中、少数の熱心な支持者が出現するというパターンを描いてきました。これは国内でも同様の反応が見られるのですが、尾崎翠の作品に「はまる」人と「取っ付きにくい」と言う人が、はっきり別れるように、この映画もまた観客を選ぶ(?)ようです。
 その中ではニューヨークのジャパン・ソサイエティでの上映が湧き、肥やしを煮たり、苔が恋愛したり、人間が切々と片恋の歌を歌ったりする尾崎翠の原作の持つユーモアに、観客が感度良くどよめいたのにはビックリ。英語字幕になったら、原作の言葉の持つニュアンスが伝わらないのでは? といった心配を誰もがしていたのですが、着想の奇抜さやユーモラスな展開が、モノを通して語られるので、案外観客の胸にストレートに染み込んでいくようです。
 今回のフランスの観客のリアクションは、今観ている映画を気持ち良く楽しもうというニューヨークの観客とは、はっきり異なるものでした。案外に静かな観客席に、最初のうちは「全然受けていないのでは」とヒヤリとしたのですが、どうも違うようです。画面と対峙し、何事か深く考えているようで、一助と二助がフスマ越しに議論し、進化論などを持ち出して、人間の祖先は苔である、などと主張するところでは、クスクス笑いが起きたりしました。
 上映後に「素晴らしかった」と声をかけてくれるのは嬉しいのですが、滔々と感想を述べて止まりません。フランスはどうも、ちょうちょう発止の議論の大変好きな国のようです。わたしはフランス語ができませんので、映画祭事務局の広報担当の研修スタッフとして参加した津田桜さん(リヨンのリュミエール大学修士課程在学中。心から感謝!)が通訳してくれるのですが、フランス人の熱弁を交通整理するのに大わらわでした。
 場所を移したディスカッションでは、参加者は多くありませんが「心理的な分裂に対する芸術的なアプローチは、翠が作品を書いた当時の日本で、どれぐらい行なわれていたのか?」「監督の強調するセクシュアリティの探求は、映画の中で翠が否定する自然主義文学の中でこそ追求されたのではないか?」等といった大変理論的な質問が、日常会話のように飛び出してきます。
 さらには「この映画を見ながら、1949年に発表されたボーヴォワールの主著『第二の性』を想起したが、彼女の思想や生き方の影響は受けているのか?」といった思いがけない質問まで飛び出し、こちらが考え込んでしまったりする場面も少なくありませんでした。しかし、いずれもわたしの作品世界に惹かれ、真剣に考えてくれていることが伝わってくる熱っぽいものです。わたしのフランス人に対する浅薄な先入見(例えば「自文化中心主義」「冷たい」など)はあっさりと刷新されました。
 長編フィクションのコンペに出品された他の作品は、一家そろって超肥満の母親と三人の娘を描いた『ソフト・フルーツ』(オーストリア)、女子高生がレズビアンであることを自覚する過程をギャグタッチで描いた『バット・アイム・ア・チアリーダー』(アメリカ)、日本でも大人気の金城クンが主演する香港・中国・日本合作の『テンプティング・ハート』、エスキモーに似た生活を送っていたシベリアの少数民族が、共産主義によっていかなる抑圧を受け、ロシアに同化することを強制されたかを、ドキュメンタリータッチで描いた『ツンドラの七つの唄』(フィンランド。監督は、少数民族出身の女性とフィンランド男性の共同監督。なおフランス語タイトルは『SEPT CHANTS DE LA TOUNDRA』)、幼い少女の孤独な魂の行方を緊迫感ある映像で描いた『海から来た叔父さん』(スイス。なおドイツ語の原題は『DER ONKEL VOM MEER』)など、いずれも実験精神に富んだ意欲作が並んでいます。
 作風は大きく異なりますが、どれをとっても、監督たちが精魂を込めた作品であることが伝わってくるもので、心からの共感とともに、わたしもまた監督として鼓舞される思いでした。この映画祭は、普通の国際映画祭のコンペ部門と違って賞の数が少なく、トータルで六つしかありません。
 長編フィクションに対しては二つの賞があり、審査員賞が、20世紀の少数民族の運命を少女の目を通して描いた異色作『ツンドラの七つの唄』、観客賞が、監督自らのレズビアンとしてのカミング・アウト体験をもとに描いたという可愛らしい『バット・アイム・ア・チアリーダー』に決定しました。
 受賞できなかったことは残念でしたが、どちらもこの映画祭にふさわしい作品といえます。また、閉会後に客席に降った風船をわたしのところに持ってきて「あなたの作品こそ賞に値する。この風船は、わたしからの観客賞です」と言ってくれた女性の彫刻家がいました。大変嬉しかったことは言うまでもありませんが、この人もわたしの作品のどこが素晴らしいか、怒涛の勢いで話して止まることがありません。通訳の桜さんと嬉しい悲鳴を上げました。
 なお、長編ドキュメンタリー賞を受けたアメリカ作品の『シャドー・ボクサー』は、女性ボクシングの世界チャンピオン、ルシア・ライカーを中心に、格闘する女性たちを追った力作です。闘いに賭ける人生哲学が語られているようですが、日本語字幕で観てみたいものです。
 開催中にスタジオでジャッキーさんのインタビューを受けましたが、これはビデオに収録して保存するのだそうです。その中でジャッキーさんは、わたしの作ってきたピンク映画に大きな興味を示し「フランスで性について果敢に挑戦する数少ない女性監督に、カトリーヌ・ブレヤがいるが、知っているだろうか?」と尋ねてきました。たまたま昨年ニューヨークで、話題をまいた挑発的な作品『ロマンス』を観たことを話すと、ジャッキーさんは大いに喜んで「佐知とカトリーヌの作品を並べて、性について考える特集をしてみたい」と言ってくれたのには感激しました。
 また、ジャッキーさんは「今回の上映を機会に、尾崎翠の作品のフランス語訳ができることを期待している」とも言ってくれましたが、これは多くの観客からも言われたことです。目下、アメリカには『こほろぎ嬢』の翻訳があり『詩人の靴』の翻訳も進んでいるようですが、ぜひフランスの読者にも尾崎翠の作品の素晴らしさを堪能してもらいたいものです。
 クレティーユは、カンヌやベルリンといった商業的な大映画祭とは異なりますが、スタッフと観客が一丸となって盛り上げる、すがすがしい映画祭でした。新作を持って来年もまたぜひやって来たい、と皆さんに挨拶してきましたが、なんとか頑張って実現したいものです。

ユタ州立ブリガン・ヤング大学/上映(アメリカ) 1999年11月23日

フィルムだけの参加


ニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校/上映&トーク(アメリカ)
1999年11月12日
 日本文学や言語学を専攻する教授たちが観客の中心で、尾崎翠の作品について熱いディスカッションとなる。
 16ミリでの上映だったが、大学の職員が映写を担当し、フィルムに傷をつけられてガックリ。

ジャパンソサエティ主催・日本文化特集(アメリカ) 1999年11月8日
 コーディネーターは、ジャパンソサエティ・ディレクターの平野共余子さん。
 「日本文化特集」での上映で、トーク、レセプションなどのイベントにも参加。
 『百物語』で招聘された主演女優、白石加代子さんと再会。

カーネギー美術館とピッツバーグ大学共催上映会(アメリカ)
1999年10月29日
 フィルムだけの参加。
 コーディネーターはピッツバーグ大学教授の慶子・マクドナルドさん。

アレキサンドリア国際映画祭(エジプト) 1999年9月15日-9月28日
カイト・ベイの要塞にて
アレキサンドリアのメインストリート
深夜のパーティー
地中海の夜明け

 1999年9月14日、私はエジプトのアレキサンドリアで開催される「第15回アレキサンドリア国際映画祭」に参加するためにカイロに向かって出発した。
 アレキサンドリアは紀元前4世紀にアレキサンダー大王が建設した都市で、クレオパトラが住んでいた事でも有名だが、私は、エジプトという遙か彼方の未知なる異文化の国の映画祭に大いなる好奇心をかきたてられていた。
 午前11時に成田を発ち、正味20時間の空の旅を終えて降り立ったカイロ空港は、深夜だというのに大変な喧噪の中にあった。
 入国手続き前の空港の中にまで客引きや物売りの人たちが押し寄せ、目が合っただけでワッと取り囲まれて洪水のようにアラビア語を浴びせかけてくる。傍で呆然と立っていた若い日本人カップルはアッという間にパスポートを持っていかれてしまった。これはヤバイ、と思った時に映画祭のポスターを掲げた男性を見つける事が出来た。
 空港の外のマイクロバスに案内されホッと一息つくと、ドイツ、ロシア、クロアチア等の監督やプロデューサーも到着して小さなバスは一杯になってしまった。
 深夜1時を過ぎて出発。アレキサンドリアまでは約4時間の道のりだという。せまいバスの中でお互いに自己紹介などし合っているうちにバスは一軒のホテルの前で停止した。
 まだ30分も走っていない。いつのまにか映画祭のスタッフは消え、運転手さんもアラビア語で何か言うといなくなってしまった。呆気にとられたゲスト達だったが、夜も遅いしこのホテルに泊まれという事なのだろうと解釈し、その夜は倒れ込むように寝てしまった。
 翌朝、カーテンを開けてみて驚いた。何と窓の向こうに3つのピラミッドが見える。しかもスフィンクスまでが砂塵の中にぼんやりと浮かんでいる。おかげで、自分が今いる場所がギザだとは解ったが、アレキサンドリアとはカイロを挟んで逆方向だ。
 ここで初めて映画祭が海外ゲストにピラミッドを見せる為にこのホテルに泊めてくれた事が解った。
 午前10時、ホテルの前に続々と大型バスが集まり始めた。乗り込む人たちは、ジャーナリスト、映画評論家、マスコミ関係者など映画祭に参加する人たちだ。
 この映画祭は、エジプトの映画批評家協会のような公的組織が主催するアフリカでは大きな映画祭で、今年で15周年。エジプトは映画産業の盛んな国で、カイロはアフリカのハリウッドと呼ばれている。
 午後2時、アレキサンドリアに到着して映画祭の本拠地となるホテルへ。海外ゲストに用意された部屋も同じホテルだったのだが、ここで私は大変なミスを犯してしまった。日本や西欧諸国でのゲストに対する至れり尽くせりの対応に慣れてしまっていた私は、何かあれば連絡があるだろうとタカをくくって、ついウトウトとしてしまったのだ。ハッと気付いた時にはホテル全体が静まりかえっている。慌ててフロントに聞くと、どこか他の場所でオープニング・パーティが開かれている事が解ったが、その場所を尋ねてもさっぱり要領を得ない。
 これに懲りて、翌日からは事前にスケジュールを聞く事にしたが、今度はそのスケジュールがまるで決まらない。日本からの参加は『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』のみなのだが、それが、“いつ”“どこで”上映されるのかをごったがえす事務局で尋ねても、「1時間ほど後になれば決定する」「今、コンピューターが調整しているところだ」と毎回同じ返事が返ってくる。思わずイラだって担当者を詰問しても、逆に何を怒っているのか、と不思議そうな顔をするばかり。そして、やっと発表された上映スケジュールは見事なほどにコロコロと変わる。
 町の中には至る所に古い映画館があり、人々が詰めかけてまるで50年代の日本の映画館のような活況を呈しているのだが、私の映画を含め海外ゲストの作品が上映されたのは、町の中心地から車で1時間ほど離れたビジネス街の近代的な映画館だった。
 だが、こちらは料金も高く、一般の観客はほとんどいない。四スクリーンがあり同時に海外ゲストの作品も上映されたのだが、観客が来ないのはどこも同じで、監督たちはただただ困惑するばかり。しかも、驚いた事に観客が来ないと上映がいつまでたっても始まらないのだ。   
 私の映画も1時間遅れでやっと上映されたが、この調子でズレ込んでいけば当然最後に予定されていた作品の上映など無くなってしまう事になる。 
 その代わり、ホテルの大広間で連日行われる試写にはTVや新聞のジャーナリストが詰めかけ、着飾った紳士、淑女たちで大盛況だ。映写機は剥き出しで置かれてガラガラと音をたて、シーツのスクリーンは風で揺れる度にピントがぼける、というたいへん乱暴な映写なのだが、観客はそんな事は気にもとめずに、登場人物と共に歌を歌い、拍手をし、足を踏みならしながら楽しんでいる。
 町を歩くと、エジプトの人たちは外国人と見るとすかさず「ハロー!」とか「ハウ、アー、ユー!」と声をかけてくる。特に子どもたちはこちらが「ハロー」と返すと無邪気に大喜びしてくれる。紀元前から異なる民族や文化と接してきた歴史は、外国人に対するかまえが遺伝子レベルから違うようで、この国は西欧的な近代合理主義では割り切れない世界なんだ、と異文化の持つ豊かさに徐々に気付かされて行く。
 上映以外でも、突然夜のパーティが伝達され、指示された時間に集合場所に行くと、顔を揃えているのは海外ゲストばかり。30分近く待たされてからやっと責任者らしき人が現れ、バスに乗る場所まで案内されるが、今度はバスが来ない。ゲストたちはすっかり諦めの表情だが、エジプト人スタッフたちは大声で楽しそうにしゃべりながら、確実に目の前の時間を楽しんでいる。
 1時間近く待ってやっとバスに乗り込み、ゲストや主賓を乗せた何台ものバスは、前後をパトカーに守られながら山道を走って行く。  何処まで行くのだろうと不安になった頃、突然闇の中から忽然と光輝く建物が現れた。
 美しくライトアップされた中庭では楽隊が民族音楽を奏で、おいしそうな料理が山のように積まれている。政府の要人やエジプト映画界のトップスターたちの挨拶が始まり、和やかに宴は進む。ただ、その全てが回りをグルリと取り囲んだ兵隊の銃で守られながら行われるのだ。確かにテロが狙うとしたら、効率のいいパーティに違いない。だが、そんな中でも参加者たちは大声で語り、歌い、踊っている。しかも、イスラムの国はアルコールが御法度なので、コーラや水で盛り上がるのだ。
 この政府主催のパーティは日付が替わって終了し、私たち参加者は再びパトカーに守られながらホテルに戻った。私はその日の朝9時の飛行機で日本に戻らなければならない。
 バタバタと支度をし、午前3時にアレキサンドリアを出発したタクシーは、時速150キロの猛スピードで砂漠ロードと呼ばれる一本道をカイロに向って疾走する。車内に響き渡るエジプト・ロック(?)に身を委ね、窓から満天の星を見上げながら、私は“ポレポレ”(ゆっくり、ゆっくり)というアフリカの言葉を思っていた。
 私にとってこの映画祭参加は、価値観がひっくり返るような強烈な異文化体験だった。日本の慌ただしい日常に戻ってみると、「ディ、バイ、ディ」と言って首をすくめていたエジプトの人たちの笑顔がとても懐かしく思えてくる。
 今、私はもう一度、あのポレポレとした時間に出会いたいと願っている。

エスノ映画祭(ドイツ) 1999年6月18日-6月22日
 ベルリンで開催されたアカデミックな映画祭。ドルトムントに引き続き、松山文子さんのコーディネートで参加。
ベルリン在住の女性研究者と交流したり、美術館を回ったり、と楽しい滞在だったが、上映時にフィルムに傷がつき、ショックを受ける。日本でもそうだが、映画館以外での上映は技術的な不安がつきまとう。

ドルトムント国際女性映画祭(ドイツ) 1999年3月10日-3月14日
 ドイツ北部の美しい町、ドルトムントで開催された女性映画祭。『尾崎翠を探して』初の海外映画祭参加。
 コーディネートしてくれたのは、ベルリン在住の松山文子さん。
 「日本特集」で上映されたのだが、最初の上映ではあまり人が集まらず、それを残念がった女性ジャーナリストや映画祭スタッフ、海外の女性監督たちが、再上映を求めて署名運動を展開、2回の上映が実現した。
 日本からは「ルッキング・フォー・フミコ」の栗原奈々子監督や、「黒髪」の栗崎碧監督が参加。