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『熊本日日新聞』 2008年8月9日
偏見のない映画文化を~女性撮り続ける浜野監督~   勝木みゆき
 作家尾崎翠の小説をベースにした映画「こほろぎ嬢」(旦々舎制作)の映画監督・浜野佐知さん(60)は、ピンク映画出身という異色の経歴を持つ。来熊した浜野さんに撮影の経緯などを聞いた。
 映画監督を志したのは1960年代後半。大手映画会社の助監督から監督になるのが普通で、採用条件が大卒男性の映画会社に正社員として入社する道はなかったという。
 そこで独立系のピンク映画で修業を積むことに。71年の監督デビュー後、300を超える作品を撮った。「差別的なジャンルだが、ここが活動の場所である以上『女の性』を女性の立場から描こうと思った」
 そんな中、96年の東京国際女性映画祭で「日本の女性監督の最多記録は田中絹代の6本」という発言を耳にした。「自分の30年は何だったのか」。映画祭で見返すため一般映画を撮ろうと決意し、目に留まったのが短編「こほろぎ嬢」など尾崎翠の世界だった。
 尾崎翠は大正末期から昭和初期にかけ小説や映画評論を発表した女性作家。心身を病み30代半ばで故郷の鳥取に連れ戻され、以降は作品を発表することなく不幸な余生を送ったとされている。しかし「独身を貫き、小説を書かない生き方を選んだ。調べてみると決して惨めな生涯ではなかった」。男性社会の中で偏見を持って見られた女性作家に自分の姿が重なる。
 「性表現を含めて偏見を取り除き、女性がきちんと表現される映画文化が日本にはない」。制作費数億円の大作がある一方、ピンク映画の制作費はわずか300万円。今も撮影を続け、女性向けの上映会を全国で開いている。
 「一般の映画でも女性を商品と見るような映画は断ってきた。経済的には厳しいけど、黄金の沈黙もあっていいかな」。
 30年、女性を撮り続けてきた自負がにじんだ。

『徳島新聞』 2007年12月17日
「鳴潮」
 鳴門市北灘町出身の映画監督、浜野佐知さん(59)はとてもエネルギッシュな人だ。映画や女性の自立について、快活に話すのを眺めているだけで、魔法にかかったように元気になる

 若いときから“男の職場”で孤軍奮闘、女性監督の道を切り開いてきたからだろう。県郷土文化会館で開かれた三作目の一般映画「こほろぎ嬢」の上映会で久々に浜野さんの舞台あいさつを聞いた

 一般映画とわざわざ断ったのは、長くピンク映画の監督を務めてきたからだ。一九七○年、二十二歳で監督になって以来、作ったピンク映画は三百本以上。「女性の視点で誇りをもって撮ってきた」。ちっとも悪びれないのが、浜野さんのいいところだ

 最初の一般映画「第七官界彷徨(ほうこう)-尾崎翠(みどり)を探して」を発表したのは九八年。昭和初期に文壇で期待されながら突然筆を折った“幻の作家”尾崎翠の幻想的な作品世界を描き、国内外で大きな反響を呼んだ

 タブー視されがちな高齢者の性をテーマにした「百合(ゆり)祭(さい)」、再び尾崎翠の豊かな精神世界に戻った今回の「こほろぎ嬢」。既成の価値観にとらわれない、自由で自立した女性像をいきいきと描く

 「いつか徳島を舞台にした映画を撮ってみたい」。子どものころ鳴門の海で遊んだ記憶が、胸の奥に大事にしまい込まれている。徳島発の映画が、また一つ誕生しそうだ。

『APIED vol.11(アピエ11号)』  2007年7月7日発行
尾崎翠特集
 私が尾崎翠と出会ったのは、1996年の冬のことだ。その年の秋に東京国際女性映画祭が開催され、その記者会見で、「日本の劇映画の女性監督で、最多本数を撮ったのは、田中絹代監督の6本です」という公式発表があった。私はそれを聞いて愕然とした。田中絹代が最後の6本目の映画(「お吟さま」・松竹)を発表したのは、1962年で、私がピンク映画でデビューする9年も前のことだ。 私は1971年に23歳で監督となり、現在までに300本を超える映画を作り続けてきたが、それはピンク映画というジャンルゆえに日本映画にカウントされず、私も映画監督として存在しない、ということをそのとき初めて知ったのだ。 
このままでは私の25年が無駄になる。焦った私は、自身の存在証明をかけて、一般映画を撮る決意をした。そして、そのための企画を探していた時、10年来コンビを組んでいた脚本の山崎邦紀から尾崎翠の名を聞いた。そして、私は「こほろぎ嬢」を読み、「第七官界彷徨」を読んだ。それが、私と尾崎翠の出会いである。まさか、その時には、その後一生をかけた付き合いになるとは思わなかったが・・・。

 1998年3月、尾崎翠の代表作「第七官界彷徨」と彼女の人生をミックスさせて描いた脚本『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』を完成させ、私は、5月のクランク・インに向けて奔走していた。制作資金を始め問題は山積みだったが、鳥取と東京で「支援する会」も結成され、後は1月に申請した日本芸術文化振興基金の助成決定を待つばかりだった。2,500万円という助成金は自主制作でこの映画を作ろうとしていた私にはとても大きな資金となる。祈るような気持ちで結果を待っていたが、3月30日になって、私に一本の電話がかかってきた。日本芸術文化振興基金からで、「脚本は審査に通ったが、この映画は原作権を取っていないというクレームがついている。明日31日までに契約書を提出したら助成を決定する」と言うのだ。私は心臓を鷲摑みされたような気分になった。確かに、「第七官界彷徨」の原作権は得ていない。だが、それは、尾崎翠の遺族である著作権者と話し合って、口頭では了解をもらったはずではないか。資金に余裕が出来たらキチンと契約書を交わす約束でもあった。
 私は、すぐさま著作権者に電話をかけたが、「稲垣先生と話し合って欲しい」の一点張り。「稲垣先生」とは、稲垣真美氏のことで、最初の「尾崎翠全集」(1979年・創樹社)の編者であり、尾崎翠を世に出した、と当時は言われていた人物である。
 実はそれ以前に、私と脚本の山崎は稲垣氏と面談したことがあった。著作権者が私たちの脚本を稲垣氏に送り、それを読んだ氏から呼びつけられたのだ。   「この脚本は零点以下。君たちは尾崎翠の人生だけを映画にしたらどうかね」。
 多分、この映画化に際して私たちが全く氏に挨拶をしなかったことも気に入らなかったのだろう。しかし、もともと私たちは稲垣氏が流布した尾崎翠の“不幸伝説”(死ぬ間際に大粒の涙をぽろぽろ流して、「このまま死ぬのならむごいものだねえ」と呟いて死んでいった、とか、鳥取に連れ帰られてからは、生ける屍のように40年を無為に過ごした、など)に違和を感じて、新しい尾崎翠像を映像で描こうとしているのだ。稲垣氏にとやかく言われる筋合いはない。
 しかし、日本芸術文化振興基金からの電話は緊急事態である。明日までというタイムリミットもある。私は稲垣氏の事務所に飛んで行って、氏の前で土下座をし、「第七官界彷徨」の原作権をもらえるよう頼んだ。氏はそんな私を見て、にこにこしながら「分りました。私からも契約書に判を押すよう言っておきましょう」と言ってくれたのだ。私は心から安堵し、翌日早朝の飛行機で遺族の許を訪れた。ところが、そこには信じられない事態が私を待っていた。
遺族は、本当に気の毒そうに、契約書に判は押せないと言う。しかも、「稲垣先生から監督が行っても絶対に判を押さないように」と言われているというのだ。私は信じられなかった。遺族にしてみれば稲垣氏は恩人だ。逆らうことは出来なかっただろう。だが、昨日、氏は私に協力を約束してくれたばかりではないか。
クランク・インはもう一月先に迫っている。今、この映画が暗礁に乗り上げたら私の人生はおしまいだ。ふと気付くと私は大声をあげて泣いていた。後にその場にいた人から、「大人の女の人があんな風に泣くのを初めて見た」と言われたが、その時の私には恥も外聞もなかった。ただただ悔しく、泣きながら、「判をもらうまでは帰れない」と石のように蹲っていた。そうこうするうちに稲垣氏から電話がかかってきて、「今、監督が来ています」という遺族に、「絶対に判を押してはいけない。あなたたちは何も分らないのだから、東大出の私の言う事を聞いていればいいんだ」などど、居丈高な調子で話している。そこに、一通の速達が届いた。それは、氏が関連するある映画制作会社からの契約書で、内容は“尾崎翠の全作品とそれに関わる全てを向こう3年間拘束する”という恐るべきものであった。私が提出した契約書は、“「第七官界彷徨」だけを一回のみ映画化する”というもので、原作権料も私が提示した金額の三分の二程度でしかない。しかも、契約書の日付は、昨日の3月30日、つまり、日本芸術文化振興基金から私に電話がかかってきた日だ。この日付で調印されたら、私には為す術もない。
しかし、神はいる。その時、部屋の隅で事の成り行きを静かに見ていた遺族の一人が立ち上がって、二つの契約書を見比べ、稲垣氏に「どう見ても浜野監督の契約書の方が誠実だ」と言ってくれたのだ。そして、私の契約書に判を押してくれ、日本芸術文化振興基金に契約書をFAXする為、私を鳥取県庁の文化振興課まで連れて行ってくれた。
こうして私は原作権を手に入れ、その後も稲垣氏の執拗な妨害は続いたが、遺族の方たちの協力もあり、無事クランク・インすることが出来たのだった。
稲垣氏は何故あのような卑劣な妨害を続けたのだろう。利害ももちろんあるだろうが、氏は氏なりに尾崎翠を愛していたのではないだろうか。その愛が独占欲になり私物化に繋がっていったのだろう。現在も氏は、尾崎翠の貴重な資料のほとんどを遺族に返却していないという。

苦難の末に生み出した『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』は、思わぬ方向に私を導いた。私に世界への扉を開けてくれたのだ。ヨーロッパやアメリカで、映画は“忘れられた女性芸術家の再評価”として高く評価された。特にパリでは絶賛され、その後、私はパリ郊外で毎年開催されるクレテイユ国際女性映画祭(世界最大の女性映画祭)と深いかかわりを持つようになった。
高齢女性のセクシュアリティを描いた一般映画二作目の『百合祭』では、アジア・ヨーロッパ基金の招聘で、アジアの女性監督の一人としてフランス、オーストリア、ドイツを巡った。アメリカでは、コロラドやスタンフォードなどの大学で上映が相次いだ。これらの全ては『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』という一本の映画が、世界に向かって羽ばたいて行った結果であり、“尾崎翠を二十一世紀に繋げたい”という私の夢はかなったのだ。

2006年、『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』から8年を経て、私は再び尾崎翠と向き合った。鳥取県の支援事業として『こほろぎ嬢』を制作することになったのだ。映画『こほろぎ嬢』は尾崎翠の短編「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」を連作として一本の映画にしたものだ。1996年時には、インターネットで「尾崎翠」を検索しても5件くらいのヒットしかなかったものが、今では10万件を超える情報がある。この10年で「尾崎翠」の名は日本国内のみならず海外にも浸透し始めている。ならば、ここでもう一度、尾崎翠の再々評価のムーブメントを興したい、そして、二十一世紀の世界に向かって羽ばたかせたい。映像なら言語の壁を越えることが出来るのだ。

『こほろぎ嬢』は、鳥取県を始め、県内各市町村や県民の皆さんの協力で昨年10月に完成した。『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』の撮影時の労苦を思えば、本当に恵まれた撮影だったと思う。
ただ一つ残念なことは、『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』に引き続いて出演してくださった吉行和子さんの妹で、詩人の吉行理恵さんが5月のクランク・インの直前に亡くなったことだ。理恵さんは尾崎翠の大ファンで(1980年3月の「週間読書人」に創樹社版全集の書評も書かれている)この映画の完成をとても楽しみにしてくれていたという。理恵さんが亡くなって遺品を整理していた和子さんは、押入れの隅から猫の遺骨とお金を見つけ、そのお金を全額映画に寄付してくれた。
「理恵があんなに観るのを楽しみにしていた映画に使ってもらうのが、一番うれしいんじゃないかと思って」。
私はその日、声をあげて泣いた。

映画『こほろぎ嬢』は、“宇宙に、あまねく存在する、すべての孤独な、たましいへ”という一文で終る。私は、この映画を、宇宙のどこかで微笑んでいる尾崎翠に、吉行理恵に、そして、前向きに孤独を生きる全ての人たちに、捧げたいと思っている。

映画監督・浜野佐知

『神戸新聞』 2007年3月27日
異色の感性、映像に  平松正子
 短い創作期に珠玉の佳品を残し、世界的に再評価が高まっている作家尾崎翠(1896-1971年)。その代表的短編3作を基にした映画「こほろぎ嬢」が4月、関西で初公開される。監督は300本もの成人映画を手掛けてきた異才・浜野佐知。時空を超えて共鳴する2女性の感性が、懐かしくて新しい幻想美を生み出している。

 尾崎翠は鳥取県出身。10代から文芸誌へ投稿し、吉屋信子と並び注目された。日本女子大国文科へ進むも執筆活動をとがめられ中退。「第七官界彷徨」などが反響を呼ぶが、30代半ばで心身に変調をきたし帰郷。以後きっぱりと断筆し、“幻の作家”として忘れられた。
 浜野監督は22歳のデビュー以来、成人映画の世界で活躍。98年、初の一般映画として「第七官界彷徨-尾崎翠を探して」を制作し、尾崎文学の再評価に貢献した。以来、国内外の映画祭で受賞多数。文学や女性学の分野からも注目される。
 浜野監督は「尾崎翠は“百年早かった天才”だ。あまりの才能ゆえ20世紀には認められなかった。私にとっては一般映画へ導いてくれた恩人。小説の翻訳は難しいが、映像なら世界へ伝わる。作品を忠実に再現することで報いたい」と話す。
 「こほろぎ嬢」は浜野監督の一般映画第3作。尾崎の3つの短編「歩行」「こほろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」を連作とみて映像化した。全編を尾崎の古里鳥取でロケ撮影。重文・仁風閣などの歴史的建造物を背景に、幻想の1930年代をよみがえらせている。
 ヒロインは祖母と暮らす少女小野町子(石井あす香)。研究旅行中に滞在した心理学者幸田当八(野依康生)に失恋し、夢見がちな日々を送っている。そんな町子に恋をするのは引きこもり詩人土田九作(宝井誠明)。さらに成長後の町子らしき女性こほろぎ嬢(鳥居しのぶ)は、イギリス詩人シャープ氏に胸を焦がす・・・。
 奇妙な片恋が交錯し、悲しくもおかしい尾崎ワールド。作家の文体を尊重したセリフは美しく、透明感あふれる映像と溶け合う。宇宙空間へと突き抜ける幕切れに浮かび上がるのは「全ての孤独な魂へ」とのメッセージ。孤独な魂-それは真に自由で強靭な魂でもあるのだろう。

『東京新聞』 2007年1月5日
銀幕に尾崎翠の感性  榎本哲也
 長く「幻の作家」といわれた小説家、尾崎翠の再評価が進んでいる。「カフカのように新鮮」と評される作品と、戦中・戦後を自立した女性として毅然と生きた姿への共感が、海外にも広まっているという。再評価のきっかけが、尾崎作品の映画化。その第2弾となる映画「こほろぎ嬢」の都内での公開が、4日から始まった。

 大正時代にデビューした尾崎は、30代に入ってから作品が注目され、「こほろぎ嬢」は太宰治も称賛した。しかし35歳で郷里・鳥取へ戻されてからは一切、小説を書くことはなかった。その生涯も謎に包まれていた。
 昭和40年代に作品の斬新さが再び注目され、死後の1979年には全集が刊行された。しかし生涯独身で、文壇でも短命だった尾崎は「運命に翻弄された悲劇的な作家」で、「郷里では生ける屍のように無為に過ごした」「気が狂って死んだ」などど考えられていた。
 「そんな〝不幸伝説〟は作り物だったんです」と話すのは、尾崎に魅せられた映画監督、浜野佐知さん。「ユーモアにあふれたすてきな小説を書く女性がそんなに不幸だったなんて、違和感がある」と疑問を持ち、鳥取で親族や教え子ら関係者に取材を重ねた。
 死去した妹の遺児を父親のような包容力で育て上げた、小説家だった過去を少しも自慢しなかった、晩年も背筋をきちっと伸ばして暮らしていた-などの証言を得て、戦中戦後の困難な時代を誇り高く堂々と生きた女性の姿が見えたという。
 こうした「本当の尾崎像」を映像で世に解き放とうと1998年、尾崎の人生と代表作を組み合わせた映画「第七官界彷徨-尾崎翠を探して」を発表。国内のほか米国や独仏など13ヵ国で上映された。これをきっかけに鳥取県では2001年から毎年、命日の7月8日に「尾崎翠フォーラム」が開催され、尾崎研究者らの情報交換の場となっている。
 尾崎の肖像を映像化した前作に続き、今作品は「尾崎翠文学の到達点」とされる「歩行」「こほろぎ嬢」、そして最後の作品「地下室アントンの一夜」の3つの短編小説を1本の映画にした。
 「尾崎作品には、温かさや優しさ、キラキラしたきらめきがあり、少女漫画のよう。10代の子どもたちにも、映画を観てもらいたい」と浜野さんは話している。

『週刊金曜日』 2006年11月10日(630号)
「きんようぶんか 観客席」 西村仁美(ルポライター)
 尾崎翠の作品に宇宙を感じさせるのは、もちろん彼女の資質などにもよるだろう。だが、同時に思うのは、故郷、鳥取県に砂漠があったからではないかということだ。浜野佐知監督による同氏原作の映画『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』に続く、第二弾の本作に立ち現れる砂漠のシーンを見ながらその思いを強くした。主人公、小野町子は「ふさぎ虫」にとりつかれている。きっかけは兄の紹介で訪ねてきた、友人の幸田当八によってもたらされた。分裂心理研究をする幸田のモデルに知らずにされるうちに彼に「片恋」をしてしまうのだ。後に町子と出会う、風変わりな作家、土田九作もまた町子に片恋をする。物語は、彼女が成人した姿を思わせる、「こほろぎ嬢」と呼ばれる女性へのそれに転じる。小説家とも詩人ともいわれるこの女性もまた異国の詩人「たち」に片恋をしているのだった――。
 町子や九作らの心の裡は風に吹かれ、刻一刻と変化する砂漠のようであり、さらに片恋をする彼らを俯瞰した視点は、果てしない地平線に感じる宇宙のようでもあった。同映画は、尾崎の昭和初期作、「歩行」「こほろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」の三作品から成っている。前作同様、原作に忠実に物語が描かれ、浜野テイストは前作よりシンプルになった感がある。その分、尾崎の宇宙感がスクリーン全体に漂うようだった。しかし人間の心の奥底にあるという宇宙の如き、「地下室アントン」はなんと素敵なところだったことか。

『ふぇみん』 2006年10月15日(第2805号)
「ふぇみんルーム」 冨岡千尋
 以前、ごめんくださいにも登場した浜野佐知監督の映画『こほろぎ嬢』を観た。
 『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』に続く尾崎翠の小説の映画化。「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」の3篇の短編小説を軸に、新たな解釈を加え尾崎翠の世界観を映像化している。
 上映に先立つ挨拶で浜野監督は、宇宙のどこかから見ている尾崎翠に怒られないような、恥ずかしくない作品にしたかったと語っていた。また、尾崎翠を読んだことのない人に映画がどういう風に受け取られるのかが気になるとも。確かに独特の世界観なので、原作を読んでいない人にはわかりづらいだろうとは思う。けれど尾崎翠の世界観を見事に展開していると思った。
 それに、本来映画ってマニアックなものの表現法のひとつであったのだと思う。とかく“わかりやすさ”に流されがちではあるけれど、わからないから考える、それもまた大事なことだろう。
 『百合祭』では老年の性をテーマに扱い、尾崎翠は独特のジェンダー観をもっていたという監督の作品だけあって、そういった観点からも興味深い。オール鳥取ロケの映像は美しく、それだけでも映画はやっぱりスクリーンでとあらためて思った。

2006年4月8日 徳島新聞
鳴門市出身の映画監督 浜野佐知さんに聞く
 鳴門市出身の映画監督・浜野佐知さん=東京都在住=が、大正から昭和にかけて活躍した鳥取県出身の女性作家・尾崎翠(1896-1971年)の短編小説3作を合わせて脚本化した映画『こほろぎ嬢』の制作に取り組む。登場人物の心中の非現実的なイメージをつなぎ合わせた、奇想とユーモアにあふれた作品だ。翠の小説を映画化するのは2作目となる浜野さんは「『こほろぎ嬢』は私の一番好きな短編で、映画化は長年の夢だった」と5月上旬のクランクインを前に帰県し、抱負を語った。

 脚本の基となった三作は、翠が37歳で断筆する直前に書いた「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」。それぞれ独立した物語だが共通の登場人物も多く、連作ととらえることも出来る。
 映画の主人公は「歩行」に出てくる小野町子という15歳の少女。後にこほろぎ嬢という女流小説家となる。登場人物は、町子が恋心を抱く分裂心理の調査研究者の幸田当八、理解不能な詩を書いている引きこもりの詩人・土田九作、動物学者の松木ら。現実世界ではかみ合っていた彼らのやりとりが、地下室アントンでは微妙にずれ、それぞれが奇想ともいえるイメージを抱いていく。二重人格の英詩人も登場し、意外な仕掛けと謎解き、宇宙的な視点も披露される。
 浜野さんは「翠の作品のきらめくようなエッセンスを取り出して、その世界観やユーモアを問いたい」と意欲を見せる。
 
 翠の作品を初めて読んだときの衝撃は今も忘れることができないという。「固定観念に縛られない自由な発想、そして自分らしく生きることへの潔さ。あの時代に、人と人は違って当たり前ということをあらゆる角度から描いている」
 特に魅力を感じているのは次の一文。「人間の肉眼といふものは、宇宙の中に数かぎりなく在るいろんな眼のうちの、僅か一つの眼にすぎないじゃないか。」(「地下室アントンの一夜」)。浜野さんは「人の目からだけではなくて、コケの目、犬の目、鉱物の目・・・と、目線を変えたときに見えてくるものは何なのか。それが今回の精髄」と言う。
 1998年に発表した、翠の代表作と後半生をモザイク風に組み合わせた前作『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』は国内外で高い評価を受け、翠の再評価が進むきっかけとなった。映画を契機に始まった「尾崎翠フォーラム in 鳥取」は今年で6回を数える。
 
 「女の視点から映画を撮りたい」。そんな思いでこの世界に飛び込んで40年。その信念を貫きながら、日本で数少ない女性監督として300本以上のピンク映画や、高齢者の性をテーマにした作品を制作してきた。
 性のあり方や生き方の幅が広がったように見える一方で、社会規範から外れたもの、少数者に対する視線の厳しさを感じる場面が増えたという。老年の性や介護の問題が他人事ではなくなった今、圧迫感を増す社会に対する“反発心”は強くなってきている。
 「“ボロボロになるまで介護に徹する良妻賢母”や“縁側でお茶をすすっている枯れた老人”など日本の社会が押し付けてくるイメージに縛られるなんて冗談じゃない」とハスキーな声で屈託なく笑う。「これからも、当たり前と思われている価値観や、タブー視されているものに風穴を開けていきたい」。社会に対する深い洞察と、“個”としての揺るぎない強さが印象的だった。
 ロケは鳥取砂丘など鳥取県内で行なわれ、9月に完成する予定。

(文化部・多田さくら)