映画感想

2007年12月14日
徳島市・森合音さんの感想
こほろぎ嬢

どんどん、ちぢんでちぢんで小さくなって、もぐりこんで行ったその先に、あったのは宇宙で。

言葉にしようとする度に、伝えようとする度に、同じぐらい零れ落ちて、からまってしまうものたちを、あきらめかけたその瞬間にすっかりほどいて拾い上げてくれるような、そんな感触を味わいました。

残ったのは、印象などではなく、しっかりと重さのある何か。でした。それを私は魂と呼びたいと思いました。

柿をかじる少女の口元。豚のぬれた鼻。踏みつけられなかったこおろぎ。一つ一つのカットが、それぞれに宇宙をまとって、それが時を越えて、理由や、意味をこえて紡がれてゆくことで響きあい、拡がりつづけてゆく。尾崎さんと、吉行さんと、浜野さんの魂が重なって放出された強いエネルギーのシャワーを浴びたような気持になりました。

そこに何かの形に限定された「ある」ではなく、何ものにも限定できない、決してされることのない「ある」を感じました。

浜野さんは疾走してらっしゃるのだと思いました。

両極端な2つのものの間を、物凄いスピードで行き来することで、いつの間にか裏側から一つの円につなげてしまう。

はじめはびっくりした浜野さんのサングラスと長い黒髪を、映画が終わる頃には表現者の覚悟や、孤独を意識して生きることの意味を問いかけてくれる象徴のように眺めていました。

宇宙の中に数限りなくある、いろんな眼のうちのわずか一つの眼である、それでいて、宇宙に一つしかないかけがえのない私の眼を、愛しく思えた映画でした。

ありがとうございました。

2007年5月21日
神奈川県・もりまりこさんの感想
「さびしいって まなざしを宙に はなつひとたち」
― 壜のなか 季節はずれの 音符およいで ―
砂丘を歩く女の人の足下がスクリーンに映って。
砂に足をとられているその女の人を客席から
観ている時、あぁあのひとはとってもひとりなんだな
ってことが伝わってきて、私はなんとなくほっとした。

この間、下北沢で映画「こほろぎ嬢」を観た。
尾崎翠の短編「歩行」と「地下室アントンの一夜」と
「こほろぎ嬢」が映像化されたものだった。
その時こころに受けた衝撃をここになにかを綴ろうと
すると指先があやふやになってしまうぐらいむずかしくて、
じぶんがじぶんのゆびがそしてじぶんであるということが
もどかしくってたまらなくなる。

スクリーンの中は言葉や視線が行き交うのに誰とも交わらない。
映画の中の登場人物たち少女や詩人はみんなが
だれかに片恋していて。そしてだれもが孤独で。
このだれもが孤独でってところに私はたちまち
やられてしまった。

孤独と恋はもともとひとつづきのものだからと
じゅうじゅうわかっていたはずなのだけど。
でもそういうアングルのものではなかったのだ。
片思いという恋は、りんかくをはじめからもたなかった
人に焦がれているみたいな感じだから、
かれらのそれはけっしてつがいになることはない。
でもあの映画に描かれていたのは、つがいになれない
孤独とかでは決してなくて、もともとひとりだったじゃない
あなたもわたしもってことをそっと耳もとで囁かれた時の
ふいをつかれた感じに似ていたのだ。
誰もが抱えている身体の中に潜んでいる「孤独」という物質を
とりだしてほらねとビーカーの中に浮かばせて、へららと笑って
みせてくれるみたいなしぐさでもって観客席のわたしを刺激した。

ひとりのひとがだれかをすきになって
だれかをすきになっているひとをじっとみていたら
みているひとまでもがこんどはそのひとがすきになって
なんか、 すきって思いのしっぽがどんどんと人から人へと
りえぞんしてゆくような恋の現場がスクリーンに濃密に描かれてゆく。

濃密なのにでも重くなくて、全編を通しておかしみにあふれている。
そこに厳密に描かれている孤独を感じ取った途端
なにが起こったかっていうとたちまち孤独がどこか
足下へとふりつもってゆくのではなくて
頭からすとんとぬけていって解き放たれた感じに
包まれてしまった。
あの映画の中に通奏低音のように流れていたのは
風通しのいい孤独だった。

映画館を出て少し冷たい風に吹かれながら知らない街を
にぎやかな方へと歩いている時ふと思った。
なんだかむだに悲しがったり寂しがったり
切ながったりしていたらふふふって
「こほろぎ嬢」に笑われてしまうなぁなんて思いながら。

「もりまりこのうたたね日記」その一六一
http://www.sakaorirenga.gr.jp/mmp/mmptop07.html

2007年5月14日
東京都・海の月さんの感想
もう一度、こほろぎ嬢
土曜日、友人とともに、久々に下北沢に行った。
私が初めて、下北沢を散歩したのは、
小劇場ブームのはるか前。
そのころ夢中だった森茉莉の小説の気配のようなものを、
感じたかったのだろうと思う。
人があまりいない、
緑の多い住宅地。
ごちゃごちゃとした駅前の商店街。

今は、とにかく人であふれていて、
劇場の前に並ぶ人や、自称役者のビラ配りのお兄さんなどに、
演劇の町を感じる。

下北沢アーントンの横も長蛇の列。
友人の言うように早めに来て良かったと思っていたら、
半数は、別の映画の舞台挨拶目当ての人々だった。

ところが、
「こほろぎ嬢」の方も、
脚本家の舞台挨拶ありで、
並んだかいがあったと思った人も多かったのではないだろうか。
熱烈拍手の後、
映画が始まった。

2度目に観る映画というのは、
おいしいと分かっているお菓子のよう。
無我夢中で食べた初めてのときと違って、
おいしい瞬間をゆっくり味わう楽しさがある。
そして、やっぱりこの味が好きだなという感慨を持つ。

なんと言っても、
私が好きなのは、後半の
フィオナ・マクラウド嬢とウィリアム・シャープ氏の
恋の場面。
ケルトの象徴薊の花に囲まれた
棺の中のシャープ氏が変身する見事な一瞬に、
ユーモア感覚のある
尾崎翠の世界を感じる。

そして、何度でも見たいのは、
やっぱり、
図書館の地下食堂の場面。
無言の女性二人の身ごなしの演技と
こほろぎ嬢のせりふの声の美しさを堪能する。

帰り道も、
町は人であふれていて、
若者だらけ。
唯一人のいない古本屋をはしごしながら帰った。

2007年5月13日
東京都・moegi さんの感想
下北沢シネマアートンという、階段を上ってゆくと、こほろぎ嬢の住んでいた「二階の借部屋」のような薄暗い小さな映画館ーそこはまさしく翠の映画を上映するのにうってつけの場所といった雰囲気!ーで『こほろぎ嬢』を観る。

かの女が作品を発表してから、もう80年程の月日が流れているというのに、作品は古びるどころか、新鮮な驚きを持って今も尚新しい読者を獲得し続けているという事実、そして『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』の浜野佐知監督による今回二度目の映画化。あんなに映画が大好きだった翠のことだもの、下界を見下ろしながら、どんなにかこのことを喜んでいることだろう。いや、下界を見下ろすというのは正しくないかもしれない。かの女の魂はきっとあらゆる場所に、それこそしゃあぷ氏のような気体詩人となって霞のごとく散らばっているに違いないから。

それで思い出したけれど、わたしの2004年9月27日の雑記にはこうあった。

「わたしの住む辺りは真昼間であってもだあれも居ない、木の葉が重なり合ってさわさわいう音や虫たちの近づいたり遠のいたりする微かな羽音しか聴こえないような場所があって、人影のない一方通行の路地の小さな交差点でふと立ち止まって辺りを見回すとしんと空気と時間が止まっていることがよくある。そんな折、ひょいと狭い路地裏を覗いてみると、薄暗い地下室の図書館の机上での午睡の夢から醒めてまだ寝ぼけまなこのこほろぎ嬢がねじパン半本なんぞ齧りながらこちらへ歩いてくるような心持ちがして途端に胸がざわざわするのが判る。」

そうなのだ、この2007年になっても、ひょいと路地裏を覗けば、そこで翠やこほろぎ嬢や小野町子に出会えそうな気がするのだ。翠の、翠だけが持つ、この親密な距離感覚は一体何処から来るのか?

ハロー、翠、お元気ですか?こちらは相変わらずです。

今日はあなたの映画を観たあと、さっき地下食堂で見たねじパンが食べたくなって、駅でねじパンを買って食べました。あいにく、チョコレエトのあんこはついていなかったのですけれど。そして、暫くのあいだ、ねじパンに没頭しながらわたしはずっとあなたとこほろぎ嬢のことを考えていました。映画の中で嬢は一人劇場の椅子に座って伊藤大輔『血煙高田馬場』(1928)を観ていたのですね!翠、あなたは踊り子たちの脚がシャンパンの泡のごとくはじけるネオン輝く浅草レヴューの都会の喧噪よりも、一人ぽつねんと武蔵野館の闇の中に座ってシネマの光と影を追いながら徳川夢声の活弁に耳をそばだてている方がきっと好きだったのでしょう。わたしは、どちらかというと都会の喧噪やモダンガールやダンスホールや岡田時彦や浅草レヴューの明るさに惹かれてしまう方なので、闇の中でひっそりと無声映画を楽しむあなたと全く正反対の性格なのに、どうしてこんなにもあなたに心惹かれてしまうのか判りません。それとも、自分とは全く違っているからこそあなたに熱狂的に魅されるのでしょうか、これが幸田当八氏の言う処の分裂心理というものなのか知ら?

懐かしい旧い友人に宛てて書く手紙のように、わたしはわたしの生まれる前に既に亡くなってしまった作家に、思わず名前を呼び捨てにして、呼びかけてしまう、翠、と。本を開けばいつだってこの懐かしい友人に会えるような気がして、わたしは尾崎翠を読み続ける。

正直に言うと、わたしはこの映画『こほろぎ嬢』を観るべきかどうか迷っていた。尾崎翠はわたしにとってかけがえのない心の友人のような存在で、とりわけ『こほろぎ嬢』は熱烈に好きな作品で、わたしの翠と映画とがかなり違っていたら、きっと長い間に渡って嫌な気分のまま過ごすことになるに違いない。

けれども、幾人かの信頼すべき友人たちのこの映画に対する言葉がわたしの背中を押してくれた。

この映画を観てよかった。

浜野佐知監督の『こほろぎ嬢』という作品に対する愛、尾崎翠を思う気持ちがはっきりと伝わってくる作品だった。

個人的な好みの問題で、難が全くなかった訳ではないけれど(しゃあぷ氏とふぃおなの出てくる洋館のシーンの軽さ、一部で使われていた電子音風の音楽や、地下室アントンのイメージなど、細かいことを言えば「これはちょっとなあ」と思うところもあった)それでも、ワンシーン、ワンカット、どこをとってもガラス細工を扱うように、大へん丁寧に丁寧に作られているという印象を持った。とりわけ、冒頭とラストのこほろぎ嬢が翠のポートレートそっくりな黒い帽子を目深に被って砂丘に佇む姿が(安易な連想だけれど、どうしても植田正治を思い出してしまう)美しかったし、こほろぎ嬢役の鳥居しのぶはやや神経質そうに見える所も、面長な顔立ちもわたしも思っていた嬢のイメージにぴったりで嬉しかった。町子役の石井あす香も可憐で初々しかった。庭先の柿をもいで食べるシーンは官能的とも言えるものだったと思う。百合子さんの『もの喰う女』を思い出す。

映画が終わったあと、ロビーへ出ると、狭い通路のちょうど正面に浜野監督がいらして、ぱっと目が合ったので少し微笑みながら心の中で、どうもありがとうございました、とお礼を言った。普段だったら、きっと監督の姿を見かけたら図々しく話し掛けてついでにいらぬことまでぴいちく喋ってしまうのが常なのに。わたしの心にはすっかり嬢が取り憑いていたので、たいそう内気で孤独を愛する女になってしまっていたのだった。

「しっぷ・あほうい!」
URL:http://d.hatena.ne.jp/el-sur/

2007年4月28日
大阪市・きたさんの感想
初日には行けなかったけど、木曜日に第七官界彷徨、今日はこほろぎ嬢を観て、久々に不思議な気持ちになりました。

こんな映画、観た事ないなって。

パンフレットに、監督が今後の予定を聞かれて、このまま行けば、野垂れ死にですね。
と答えられている箇所を読んで、ついつい私も笑ってしまいましたが、次回作も期待しています。
昨年、百合祭を観る機会があって、他の作品も観たいな、と思っていました。

今年の春に、鳥取の倉吉に行く機会がありましたが、映画のロケシーンの写真を見かけたりしました。実際に上映されることを知り、二作品を観れて良かったです。
倉吉に行ったせいか、映画がすごく身近に感じられました。

感動しました。

2007年4月25日
大阪府・aishi さんの感想
十三の第七藝術劇場で公開中の映画『こほろぎ嬢』と『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』を観てきました。
土曜日に行ったので、浜野佐知監督の舞台挨拶も見れたのですが、上映前、劇場ロビーでうろうろしていると、ちょうど浜野監督が入っていらして、ご挨拶することができたのです。
浜野監督の作品は、一般映画以外にも、昔参加していた映画サークルで、瀬々敬久監督などの作品が話題になっていたとき、その流れから拝見させていただいたことがあるのですが、作品から感じるバイタリティがそのままご本人から発散されているような、あたたかい空気を全身から発散されている方でした。

そんなことがありつつ、『第七官界彷徨−尾崎翠を探して 』と『こほろぎ嬢』を連続鑑賞。
各作品の上映前にあった舞台挨拶で、監督は「100年早かった天才」である作家・尾崎翠をいかに21世紀に残したかったかということ、そのため、文学を全世界の言葉に翻訳するのは難しいけれど、映画でなら世界中のどこへでも持っていって紹介することができる、そのために本作を製作したことを語っていらっしゃいましたが、一本目の『第七官界彷徨−尾崎翠を探して 』は、小説『第七官界
彷徨』の映画化であると同時に、尾崎翠という人物の生き方を伝える伝記映画となっていて、画面全体から「尾崎翠という存在をフィルムに刻みつけよう」という気迫がビリビリと伝わってくる作品でした。
内容は、『第七官界彷徨』のパートと、尾崎翠の人生をその死の瞬間から遡って描くパート、そして、その様子をモニターで見ている二人の少女とゲイ&レズビアンの面々がいる現代のパート、の三つから成り立ち、モザイクのように組み合わさっているのですが、だからといって見づらいこともなく、それぞれのパートに見所がある。
特に、実人生のパートと『第七官界彷徨』のパート、どちらも主人公役の役者さんが非常に魅力的。尾崎翠を演じているのは白石加代子さんですが、74歳から30歳前後までを一人で演じ(それを可能にした小林照子さんのメーキャップ技術も驚異)、どっしりと地に足つけた断筆後の翠から、東京で文学ひと筋に生きていた頃の才気溢れる快活さまでを、さすがの演技力で表現、なるほど確かに尾崎翠とはこういう女性だったのかも、と、作品自体に説得力を持たせる、大きく太い柱となっていました。
そしてまた、このパートは他の女優さんたちもそれぞれ魅力あるのですが、翠の親友・松下文子役の吉行和子さんは勿論、林芙美子役の宮下順子さん、翠の妹役の白川和子さんが特に印象的です。ただ芝居が的確というだけでなく、姿を見せると画面に、そこはかとなく華やいだ空気が流れる。
『第七官界彷徨』の方も、小野町子役の柳愛里さん、最初出てきたときはあまりに現代的な顔立ちに違和感をおぼえたのですが、話が進むにつれ、原作のイメージ通りの小野町子に見えてくる、その求心力が凄い。
個人的にはこのパートが一番リラックスして楽しめたというか、作り手の方々が『第七官界彷徨』という小説を愛しんで、その世界観を忠実にフィルムの中に再現しようとしているのがひしひしと感じられるものがありました。
蘚の描写もひとつひとつ印象的だし、物語全体に漂うどこかオフビートなユーモア感と、清潔なエロティシズム(というのも何か語弊があるような気はするんですが)が再現されているのが良いです。
隣家の少女と町子との交流の様子や、二人が見つめる洗濯物の靴下から滴る水滴、雨漏りの音に気が散ってオペラの練習ができないと嘆く三五郎の足もとで、雨のしずくを受ける金だらいに散るウォータークラウン、など、水の描写も印象的。
劇中モニターで登場する矢川澄子さん(加藤幸子さんと、この方のインタビューは非常に貴重)が「尾崎翠と稲垣足穂はすごくハイカラなの」と語られていましたが、ほかの作家ならいくらでも湿っぽく(いろいろな意味で)書きそうな題材を、あくまで軽やかに、ドライに表現した語り口を、しっかり踏襲しているところも好もしい作品でした。トータルして全編が尾崎翠賛歌になっているところも含めて。

続けて観た『こほろぎ嬢』は、短編「こほろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」「歩行」を合わせてひとつの物語とした作品ですが、オール鳥取ロケだけあって、とにかく舞台となる鳥取の風景・自然が、有無をいわさず美しい。
風光明媚、という言葉がふさわしい映像は、鳥取県が支援事業として全面協力した値打ちが、これだけでも充分あったろう、と思わせられるものです。
そしてこのロケ撮影、というのが効を奏したのか、あるいは原作の持ち味を生かした演出のせいか、画面も筋運びも軽やか、かつ、全編を流れる空気の抜けがとてもいい。
『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』にあった緊張感が、良い意味でなくなっていて、すんなりと観客を作品世界に迎え入れてくれる、のびやかさが漂っている。
風景のみならず、出演者(人間からおたまじゃくしまで)、小道具まで、すべて、原作の世界観そのままに成り立っているので、観ている間ずっと心地よかった。海や、緑の木々の間をぬって吹く風に、気持ちよく包まれているような感じ。
音楽が(映画音楽としてとても大事なことだと思うのだけれど)出しゃばらないのも有難く、「歩行」の小野町子が成長して「こほろぎ嬢」になるという脚色&物語の進行も、さもありなんと、自然に得心が行くものが。
個人的に、食べ物を美味しそうに撮る(または書く・描く)人というのを信用してしまうのですが、この映画は原作に劣らず、出てくる食べ物が全部美味しそうでした。柿にお萩に、それから勿論、ねぢパンも。
『黄色い涙』の感想でも書きましたが、「フードを制す者、少女まんがを制す!」(by.福田里香『まんがキッチン』)であると同時に、「フードを制す者、映画を制す!」なのでしょう、やはり。

ラスト、地下室アントンに集った登場人物たちが、そこから宇宙を見る場面が特に好きです。
「宇宙に あまねく 存在する すべての 孤独な魂に」とのテロップとともに、これぞ尾崎翠スピリットではなくて?と言われたような気がし、軽くめまいをおぼえました。一本取られた、という感じです。『全て緑になる日まで』ならぬ、宇宙の全てが翠になる瞬間、を確かに映像で見せられた気がしました(なんのこっちゃ)。

〈追記〉
『第七官界彷徨』は、初出では「私の生涯には、ひとつの模倣が偉きい力となつてはたらいてゐはしないであらうか」という一文から始まっていたそうですが、これを聞いたとき、頭によぎったのが、長野まゆみの『サマー・キャンプ』に登場するある台詞。
『新世界』以上に、性別にまつわる約束ごとがラジカルに崩されてゆくこの作品で、不妊治療を行っている医師は、こんなことを言う。「人間の生には、個人の利害とはべつに、種としての未来への責任も含まれるのよ。それを果たす手段は、生殖活動だけとはかぎらない」
「独りの人間の軌跡を、誠意を持ってなぞる。それを後世へ伝えることが重要なのよ」と続くこの台詞に、尾崎翠という作家の人生と作品を、フィルム上によみがえらせた上記2作品のことが頭に浮かぶと同時に、蘚も人間も、あまねく現在の生を生きるものは、どんな形であれ未来への種子として存在しているのだ、ということに、改めて思い至りました。
それぞれの生についての回答は、一生などという短い時間で得られるものではないのかもしれない。だとしたら、翠の最後の言葉と伝えられる「このまま死ぬのだとしたら、むごいものだねえ」という言葉に、どれほどの意味があるのか(いや、ないような気がする)。そのこともまた、考えてしまうのです。

2007年4月22日
京都市・モリさんの感想
大阪での初日に行ってきました。
いかにも十三らしい雰囲気満載の立地のビルの中にあって、そこは確かに異空間だったと思います。
以下、つらつらとした感想ですが…

エンドロールが流れているとき、自分が泣いていることに気づきました。

あれ? やばい、私、泣いてる?

と思ったら、更に涙が出てきて。

直接的にはたぶん最後の字幕にやられたのです。
あれはちょっと反則だと思うくらい、胸に響きました。

監督は決して人を泣かせようと思ってこの映画を撮られたのではないと思います。
特に悲しいシーンがあるわけではないし、尾崎翠らしいユーモアの効いた映画だと言ってもいいでしょう。
だから私の感じ方は制作側の思惑とは違ったものだったかもしれません。
でもこほろぎ嬢のプライドと孤独、またこの映画の雰囲気、翠に対する作り手の愛情、そんな諸々に、心を揺さぶられたのです。

映画が終わったあと、走って監督と握手しに行きたいような気分になったのですが、こんな日に限ってハンカチを忘れた(…)ため、しばらく席を立てませんでした。自業自得です。

またヤマザキさんは気にしておられましたが、(偉そうに言わせてもらうならば!)尾崎翠作品の一つの解釈をわかりやすく示した映画になっていたと思います。
翠作品へのとっかかりとしてもオススメできます。

少なくとも私は、この映画に尾崎翠の「スピリット」を感じました。

2007年4月22日
京都市・犬塚芳美さんの感想
 この映画は、例えるなら、自分の物ではない誰かの本箱の片隅の、少し古びた1冊を取り出し、ケースから出して開いた所、文字の間の挿絵が少しづつ色付き、やがて動き出して、其処に世界が広がって行くようでした。今いる所も、隣の部屋の母の呼び声も何時しか忘れ、恐る恐る其処に身を浸します。と言っても私は迷い込んだ物語の中の孫娘になる訳でも、こほろぎ嬢になる訳でも、まして引き篭もりの青年詩人になる訳でもありません。なれるのは誰にも見えない透明な体か、せいぜいが壁に写る曖昧な影といったところでしょう。

 小劇場系の舞台で、よく思わせぶりな硬い歩き方で、観客を現実から劇的世界に導入しますが、この映画の冒頭が正にそれでした。少しまどろっこしい歩きのテンポと下駄が砂に食い込むギシッ、キュと言う音が、呪文のように、映画の世界、異界に誘います。あの歩行は砂丘の下に少しづつ踏み入っていく儀式だったのですね。そして迷い込んだ世界は、今のようでもあり、私が生まれるずっと前のようでもあり、ふわふわと漂う不思議な時空です。そんな世界のお話だから、暗がりが、明かりが、影が、煙がひそひそとざわめき、溜息を漏らすのでしょう。監督は、見えない心を表情ではなく気配で見せると言う、果敢な試みをしていくのでした。

 もっともそれが原作の世界観なのです。この映画に触発されて原作を読んでみましたが、人の表情なんて浮んできません。と言うより、登場するのは例えば兎少女だったり、お人形だったりと、人でなくても、人であってもいいような不思議な世界。人を超えた、尾崎翠の目指した第七官界で語り合う存在でした。

 取り止めのなさに現実とのつながりを見付れなかった。こんな不思議な世界を、形ある映像に作り上げた監督の力技に今更ながら感動します。

 そんな彼らが暮らす古い家には本物を使ったゆえの時代感や生の息遣いがあって、逆に人物誰もの浮遊感が目立つ仕組み。架空の世界は現実の隣に出現すると言う尾崎作品そのものの広がりよう。なおかつ残る異界感が見事言うしかありません。

 シャツに、コートに、帽子に、漆喰の壁と色々な白の重なりと多様さにも驚きました。微妙な違いが美しくそれぞれの白を競います。他にも深い赤や緑と、暗がりの中で何時も何処かがライトを浴びたように鈍く浮かび、色を持つ事の美しさを知りました。微妙な音といい、色彩といい、映画に込められた愛をこれほど感じたことはありません。

 色々な所に風がありました。菖蒲畑も窓辺の柿ノ木の葉っぱも、いつもさわさわとそよいでいます。でも風は孫娘の髪を揺らす事もなかった。そよぐだけで、煙や影のように溜息をつき、語りかけてきません。実は少しそれが不満で、そして観終えて気付きました。残念だったのは私以上に、孫娘であり、尾崎翠だったのだと。第七官界に飛び立てなかったのは、風が他人行儀に隣をそよいで、尾崎を巻き込まなかったからではないでしょうか。いえ、彼女の方から風と距離をとって踏み込まなかったのかもしれませんが。

 「このまま死ぬのならむごいものだねえ…」と言うエピソードですが、それは穏やかな伯母としての暮らしに閉じ込めてきた詩人の尾崎翠が、今際の際に漏らした言葉かもしれない。彼女もまた二人の自分を持っていたと思うのです。詩人のウィリアム・シャープが女性の心を併せ持ったように。詩人の彼女が顔を出してそう言ったかもと想像しました。

 もちろんだからと言って不幸だったと言うのではありません。生活人としての後半生を選び、詩人としての人生を諦めた。それが自分で選んだ事だっただけに、何時までものつもりはなく、いずれ飛び立つ、その前のひと時の小休止のつもりだったのではと思うのです。手の届く所に第七官界を感じながら、自分で其処への彷徨を諦めた。しばしのつもりがいつしかそれが彼女の半生をしめ、今死の床にある時、閉じ込めた詩人が「むごいものだねえ…」ともう一人の翠に呟いた。それを不幸などと私たち凡人の基準で測るのは、それこそ言語道断。その横で、もう一人の翠がこんな人生も良かったのよと微笑む姿が見えるようです。これは仕方ない。選ばれた創造者の宿命というもの。早く生れ過ぎた天才ならこその、そして穏やかさも併せ持っていたからこその定めだったと私は思います。

 映画はこんな風に色々想像と好奇心をかき立てます。創造力を刺激する、可能性を秘めた作品なのですね。尾崎翠との出会いを作ってくださったこの映画に感謝です。

2007年4月20日
京都市・砂岸あろさんの感想
 大阪で『こほろぎ嬢』を観ました。
 尾崎翠の原作を読んだのは20年も前ですが、その時から浮遊していたつかみどころのない不思議な物体?が、この映画ですとんと胸に収まり、そうか、そういうお話だったんだ!と思わずつぶやいてしまいました。当時少女漫画を読みふけっていた私は、これが漫画ならもっと面白いのに、と密かに思っていましたが、脚本の山崎さんが大島弓子がお好きだときいて、なるほど!と。翠が漫画という表現方法を知っていたらきっとそれで表わしただろうし、もともとこれは映像化される運命にあったのですね。そういう意味で、浜野監督のこの映画は単に文学の映像化としてだけではなく、翠がやり残した仕事の完成でもあるような気がします。
 
 前作の『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』では翠の人生を追って作品世界に分け入った監督が、『こほろぎ嬢』ではもっと自然に、まるで翠と一体化したように、その世界に誘ってくれるようでした。

 翠の、ちょっと滑稽で切なく、時として少女の妄想とも取れるようなひとりよがりの、一見閉じられた世界観が受け入れられるのは、作品が発表された当時よりもむしろ、現代ではないでしょうか。敏感すぎる感性をユーモアのオブラートでくるんだ翠の作品そのままに、一点のあざとさもなく優しく寄り添ったこの映画の作り方に、監督の静かな愛情を感じました。レトロでありながら限りなくモダン、凛としながらも抒情的、両性具有的な翠のジェンダー観もきちんと盛り込まれて、翠さんがこの映画を観たら拍手喝采されたのではないでしょうか。翠ファンだけでなく、静かな力を求めているすべての人に見てもらいたい映画です。

 余談ながら、この映画は亡くなった吉行理恵さんに捧げられています。その理恵さんと、出演の姉、吉行和子さんの文章がパンフレットに載っていて、これを読んだだけでも?映画を見られてよかったと思いました。(監督さんごめんなさい)

2007年4月17日
京都市・文芸誌「アピエ」編集発行人 金城静穂さんの感想
大阪の第七藝術劇場で「こほろぎ嬢」を観ることが出来た。主要人物はほとんど私の知らない俳優たちだったが、予想以上に適役、好演で感心する。

こほろぎ嬢を演じる二人の女優は、最近流行の癒しやかわいい系ではなく、しっかりした骨格で知性が滲んでいたし、媚びることもない。幸田当八も詩人の九作役もすばらしい。いかに慎重にキャスティングしているかが伝わってくる。

先に原作を読んでいなければ、この映画を味わうことは難しいかもしれない。あえて文体セリフを多用した脚本は、愛情深く原作を読み込んでいなければ不可能なはずで、脚本家山崎さんの気概も感じる。原作の文章を忠実にそのままセリフにする大胆さに拍手しながらも、多くの観客動員は大変だと思う。たくましいリアル感覚満載の大阪人に観てもらう作戦を練ってください !

尾崎翠の独特の世界を映像化する・・・、原作をなぞるだけでは意味薄く、翠ワールドを壊してしまえばファンからのブーイングを受けるはず。そこを浜野佐知監督は長年の映画作りのキャリアを生かして、絶妙な距離間を維持しつつ、映画ならではの仕掛けを見せてくれる。

まずは鳥取ロケ。濃密な室内劇の色濃い原作を戸外の風景に開放したこと。映画を見た人は、すぐにでも鳥取へ行きたくなりそう。そして古い図書館や洋館を背景にノスタルジーを全編に放ちながら、永遠に新しいシュールな物語を見せてくれたこと。これこそ誰も持たない尾崎翠の第七官界の遊歩に思える。

時には自分自身を覗き見、自由に開放してやらなくては。慌しい日々のノルマに流され忘れ去っている大切なもの。そんなことにまで思いを馳せてくれる、しみじみ良き作品だった。

2007年4月10日
東京都・川上未映子さんの感想
浜野佐知監督・尾崎翠原作「こほろぎ嬢」素晴らしかった
 昨日は東京ウィメンズプラザで浜野佐知監督、尾崎翠原作の「こほろぎ嬢」を観た。台詞や状況設定など、大部分を原作に忠実に再現していて、てらった手法をひとつも使わないのに、見事におのおのの「官界」に於いてしか理解不能な素晴らしい作品に仕上がっていて感激。

 今回映像化されたものを観て、新たに発見した尾崎翠の魅力は「官能」でした。これはかなり意外でした。
 物語の冒頭で、ある家に立ち寄ってしばらく滞在し、お礼も云わずに帰っていくという心理研究者の男が、着いていきなり、その家の祖母と孫娘・町子に、研究と称してファウストの中の「キス」という単語の入った台詞を読み上げろと迫るのですが、恥かしくて恥かしくて声も出ない生娘・町子に「お祖母さんがいては読めないね」とか云っちゃって屋根裏部屋に連れ込んで、そこでまた読み上げろと迫って、ようやく息も絶え絶え読み合うのですが、あるいはびちゃびちゃと柿を食べあうのですが、この箇所、本で読んでる限りにおいては醍醐味という部分ではなかったのに、映像で見ると、淡々と為されていくこのやり取りの、このなんたる官能的なことか、すっとんきょうな脈絡の中で、この言葉の交感はとても滑稽でゆえに艶かしく、単純でお恥かしい話ですが、このシーンを観ていて私は性的に非常に興奮しました。

 ずっと前に確か広辞苑を読む続けるというフェチのえろ系のビデオがあったのですが、それはそれように作ってるんであってあれなんですが、むろんその比ではなく、このこほろぎ嬢のこのシーン、「図らずも」というところが何にも増してえろい。まるでアルプスの少女ハイジを観ていて女の私がえろさを感じてしまうような、それくらいの「図らずも」。今まで尾崎翠の作品に触れて、私の場合、あ、性的なことをほのめかしてるな、描いてるんな、と思う箇所はたくさんあるのやけれど、何故かえろさが弱いっていうか、まさか意図的に排除してるわけでないやろうけど、なんせこう拙い感じになるっていうか。たとえば新藤兼人監督の映画も、墨東綺譚やのに、も、まったく全然色気がなくて、これはきっとこの監督自身に色気がないんやないやろかと思うほどで、そんな感じで尾崎翠自身に基本的にそういう性的な訴求力が希薄であったのかも知れんなあ、興味がなかったのかも知れんなあと思うほど、なんというかその「物語」、「詩」からは明確な「性」というものを感じることがなかったのでありました。

 登場人物の全員が完全に未性のものであって、そこで「恋」と連発していてもそれは性別を持たない感性がただ浮遊しているだけの状態を指すというか、なんか二度とは戻れない、こう泣きたくなるような未分の憧憬を。尾崎翠の作品からは常に強烈に受け取ってきたわけで、個人的にガードががら空きやった「性」の部位、不意をつかれました。っつうか処女に戻りたいしあんな風に柿食べたいしキスとか読むだけでマジで悶えてみたいし、いいなあ、いいなあ、大人の階段なんか爆破したらよかったわ、踊り場で足をとめて時計も爆破したったらよかったわ、っていうかそもそも処女やったららばこんなところでえろいだのなんだので喜びませんか、そうですか、そですよね、っつう私のわが身への呪詛はともかく、とにかく、この冒頭がとてもいやらしかったです。これは浜野監督の色気技であろう。

 さらに、この映画で私が個人的に再確認したことがありました。それはこの作品中における「存在論」そのものの再確認であって、この小説自体が「存在」というもの、この巨大な概念を文章という「虚構」の中でどうにかしてその尻尾を掴もうとしているあがきであって、それは埴谷雄高が「死霊」でしつこくしつこくやり続けていたことと、やっぱり同じ質のものであるのだということでした。論理と詩の苦し紛れの婚姻であるところの埴谷雄高の「死霊」が哲学小説と称されるのであれば、尾崎翠の小説もまた哲学小説であろう。

 机も蟹も家も人間もヴァイオリンも、このすべて地球を含む宇宙のものすべての共通項、あるいは分母である「在る」ということ。いくら「脳」の性能が解明されたとしてもその脳が「在る」ということの説明は脳をもってして出来ないように、この「在る」ということについて考えることが「存在論」であって、「在る」。これに対する畏怖と驚嘆とを尾崎翠は詩人に何度も呟かせます。あるいは、何故人は「在る」に対して問いを持ってしまうのか。なんでか!すべて在るものは在る!存在している!というこのお手上げの事態をまえに、尾崎翠の詩人・九作は「自分がふろしきなのか、ふろしきが自分であるのかわからなくなる」というし、埴谷の超人・首猛夫はたまらずに「あっは!」と呻くんであって、それぞれ発露の仕方は違うけれど、両者の表現は「在る」というこの宇宙大の謎に睨まれることから出発しているのだとも受け取れるのであって、映画の途中で、妄想としか受け取れられへん詩人の台詞を聞くたびに、ああこれは「存在」に対する呻きやわ、埴谷雄高も尾崎翠もおんなじことを考えてるのやもなあとじんときたものよ。「存在」に対する個人の孤独と、おののきと、了解が、およそ人と分かち合えるわけがなく、それが埴谷雄高の「死霊」がどこまでも理解されんと「脳内の童話」だの「ファンタジー」だのと揶揄される当然の理由であって、尾崎翠が「少女趣味」、「妄想的」やとおおざっぱに括られる正しさであります。

 この浜野佐知監督の映画は、そんな尾崎翠の仕事を「正しく」映像化することに大成功していると思います。や、いきなりウィリアムシャアプ氏がこほおろぎ嬢の脳内でなんか漫才みたいな日本語で喋り出したときは、も、その絵づらのおもろいこと、わけがわからんくて感涙したわ。んで最後は地下室から硝子越しに宇宙に溶けていくねんで。その絵づらもこう、私にはおもしろすぎて、時制もなんもあったもんやないねんけれど、目をいっぱいに開いて、堪能しました。

 映画が終わったあとの質疑応答で、─たぶん、内容がその人にとってちんぷんかんぷんだったことから、

「真剣に、観客のことをどうお考えですか」

という問いに対して、明るく力強く答えられた浜野監督の、

「完全にインディペンデントで制作をしているのは、何にも迎合したくないからで、乱暴な言い方になりますが、何にも迎合したくはなくて、もっと云うとお客さんにも迎合は出来なくて、ただ、自分と尾崎翠に恥じぬ作品を作るだけなんですね」

という言葉は、これまで数多の表現者から、も、飽きるほど幾度となく出てきた言葉であって、大人になりなよ、と星の数ほど突っ込まれてきた宿命の言葉なんではあるがしかし、作品というものは何よりも強い、作品というものは何よりも作家を保証する、あの作品を観た後で、今まで聞いていきたこの言葉のどれよりも、というよりはそこに立ってにこにこと笑う浜野監督自身が、私の脳天に五寸釘のごとく本当に鋭くぐっさ突き刺さり、突き刺さったのにも拘わらず、そこから何が漏れるわけでもなくそれどころか頭の中はどんどんどんどん膨らんで、ぷわっと足がコンクリートから浮く思い、それこそ夜と自分の境目を見失う曖昧な官界は渋谷、つんのめるようにして、仕事に戻ったのやったけど、眠る直前までうわの空、地下室でなくとも、最高に特別な、稀な夜をありがとうございましたと誰に向かっていえばいいのかわかりませんが、そういうなんか、一個の存在である私が無数の存在へ向かって、ハロー!と呼びかけたくなるよなそんな気持ち。

「未映子、公式お日記 純粋悲性批判」
http://www.mieko.jp/

2007年1月7日
東京都・三橋順子さんの感想
1月7日(日) 曇り 東京 11.2度 湿度 31%(15時)強風
11時、起床(仕事場)。
シャワーを浴びて、髪をお団子にまとめる。

13時、身支度。
暗い青の放射模様の上に赤の放射縞が乗る松葉を意匠化した足利銘仙(きものACT)。

深草色にカタバミ柄の半襟をつけた黒地に更紗模様の長襦袢(紫織庵)。
錆朱に金彩の帯を角出しに結ぶ。
帯揚は芥子色、帯締は深草色(福福堂)。
ボア襟の黒のカシミアのマント。
赤い麻の葉柄の鼻緒の下駄

渋谷経由で、下北沢へ。
15時、駅で、友達のお豆販売業&ライターの長谷川清美さんと待ち合わせ。
喫茶店で、ミックスサンド&コーヒーを食べながら、私の手元にあったお豆文献のコピーをプレゼント。

その後、11月の「お豆博」の時に話したことの続きの子供時代の山村系食べ物談義。

たとえば、
自家で梅干を漬けていたのは、いつごろまでだったろう?
昭和45年(1970)頃?
ほんとうのトチ餅が食べられたのは、いつごろまでだったろう?
昭和50年(1975)頃?

記憶がおぼろなのだが、どうも、私が生まれ育った北関東の田舎町では、1970年代にいろいろなものが消えていったような気がする。

16時、一緒に「シネマアートン下北沢」に行き、上映中の浜野佐知監督の映画「こほろぎ嬢」の入場整理券を取りにいく。
15・16番。
あぶない、あぶない。
ここは座席が少ないので。

アジアン系のレストラン&喫茶店へ入る。
私は、マサラチャイを注文(おいしい)。
ここで長谷川さんの友人の女性が合流。

17時、再び「シネマアートン下北沢」に行く。
風が強くなって寒い。
会場を待って並んでいたら、浜野佐知監督と脚本家の山崎邦紀さんが姿を見せる。
ご無沙汰のご挨拶とお祝いを述べる。

17時半、開場。
首尾よく、手ごろな席に座れる。
「シネマアートン下北沢」は40席のレトロな雰囲気の小さな映画館。
今日は通路に椅子を並べた超満員。

映画「こほろぎ嬢」は、尾崎翠(1896〜1971年)の短編小説「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」(いずれも1932年の作品)を原作にした作品。
浜野監督としては「第七官界彷徨」(1998年)以来の、尾崎翠作品の映画化。
また全編、尾崎翠の出身地、鳥取県での現地ロケというのも、今回の特色。

鳥取の美しい風光と、文化財指定建物をふんだんに取り入れた映像は実に美しく、懐かしい。
日本ってほんとうに「美しい国」(中身のない政治スローガンではなく)だったのだなぁ、しみじみと思う。

3つの短編をつなげるという構成にちょっと不安があったが、山崎さんの脚本は巧みで、まったく違和感はなかった。

主役の「小野町子」を演じた石井あす香さん、着物姿が実にかわいらしいが、同時に不思議なエロチシズムがある。
浜野作品には欠かせない吉行和子さんは、「松木夫人」役で貫禄。
「松木氏」役の外波山文明さん、「おばあさん」役の大方斐紗子さんらの脇役もいい味を出している。

注目していた衣装(着物)も、大きな問題はなかった。
細かく言えば、ちょっと?(色柄的に戦後かな?)というところもなくはなかったが、制作予算を考えれば、無理は言えない。

全体として、「第七官界彷徨」を筆頭に、尾崎翠の作品は難解というイメージがあるが、今回の映画で、けっこう「変」ということがわかった。
そして、この「変」に無理に哲学的な理屈をつけるよりも、素直に笑ってしまった方がいいのだろう、ということに気がついた。

また、作品の中で美貌の女性として搭乗するマクロード嬢(デルチャ・M・ガブリエラ)が、女性の心をもつイギリスの詩人ウィリアム・シャープ氏の分身であるという、トランスジェンダー(両性具有)的な場面もあって、私としてはうれしかった。

上映終了後、浜野佐知監督、吉行和子さん、大方斐紗子さんのトークショー。
それだけでも豪華メンバーなのに、主演の石井あす香さんが飛び入り参加。
いろいろ愉快な話を聞くことができた。

ちなみに、上映中にゴーッという風の音と家鳴り。
古い建物なのでちょっと怖かった。

パンフレットを買って外に出たところで、浜野監督に誘われる。
下北沢駅前の居酒屋へ。
監督、山崎さん、大方さん、石井さん、支援者の方お2人、女優の卵の方、長谷川さん、私の9人。

浜野監督から、オフレコの制作苦労話をうかがう。
石井さんは間近に見るとほんとうにきれい。
大方さんの洒脱なお話も楽しい。

浜野監督とは、小谷真理さん(SF/ファンタジー評論家)のテクスチャルハラスメント裁判の支援者として最初にお会いした。
その縁で、「第七官界彷徨」「百合祭」と浜野作品は、ずっと見せていただいている。


とは言え、私と浜野組との縁は、脚本家の山崎さんの方がずっと先。
山崎さんが編集長として1991年12月に刊行した『CROSS DRESSING』(光彩書房)という日本初の女装商業雑誌(企画として早すぎて、わずか2号で廃刊)のグラビアモデルを私が務めたという縁(ちなみに、私は黒のミニドレス姿)。
まさか、こんな形で再びご縁があろうとは、お互い思わなかった。

終電ギリギリまで、飲んでしゃべって、散会。

0時20分、仕事場に戻る。
疲れたけども、楽しい一日だった。


「続・たそがれ日記」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
「女装家 Mitsuhashi Junko homepage 」 
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/index2.html

2006年10月27日
東京都・海の月さんの感想
 映画「こほろぎ嬢」を東京国際女性映画祭で見た。
 実に初々しい映画であった。
 尾崎翠のファンにとっては、必見の価値のある映画だろう。
 映画は、尾崎翠の短編『歩行』『地下室アントンの手記』『こほろぎ嬢』の三編から作成されている。
 私にとって一番魅力的だったのが『こほろぎ嬢』にある図書館の地下食堂の場面だ。ここだけでも、何度も繰り返し見たいほどだ。   
地下への階段を下り婦人食堂へ入るこほろぎ嬢が、頭痛薬を飲んだ後食堂の先客に気づき、ねじパンを食べながら、相手を産婆学の独学者と決めつけて頭の中で語りかけるこの場面。
まず、階段下の売店でこほろぎ嬢の異様な気配にぴくっとするパン屋の売り子を演じた平岡典子の清新さが魅力的だった。そして、こほろぎ嬢の褐色の衣装とハンドバッグも見事。モダンでいながら地味な風情に都会で一人暮す女性の面影がある。
独学者に語りかける場面の鳥居しのぶの真摯な眼差しと声の美しさにも、打たれた。
又、彼女が食べるねじパンの思いもかけぬ大きさに、霞のようなお菓子ではなく、生きるが為のパンであることが感じられてくる。同じように、黒い衣装でモダンな装いながら無骨に消しゴムを使い、かすを吹き飛ばす産婆学の独学者の片桐夕子の姿に、図書館で学ぶ先進的な女性の学問が生活のための実質的な産婆術であることの対比が現わされていて、納得のいく場面だった。
 次に面白かったのが、こほろぎ嬢の頭の中で繰り広げられる、「フィオナ・マクラウド嬢」と「ウィリアム・シャープ氏」の恋の物語だ。特に彼の友人たちがフィオナに会わせろと攻めつつ、彼の臨終場面で真実を知るところは、映画にしかできない面白さがあって楽しかった。擬古文で語り合う彼ら外国人の役者たちの不思議な身振り、羽ペンで縦書きに恋文を書き合う恋人たち。もし、この映画が海外に配給された時、この面白さは伝わるだろうかなどと考えてしまった。

 映画全体は、『途上』と『地下室アントン…』の世界だが、尾崎翠の独特な言い回しそのものが台詞に使われたことによる違和感がある。また、それを舞台で演じているように台詞としてねじ伏せていく感覚の役者と、自然体で映像の中に溶け込んでしまっている役者との違いが一種の齟齬を来していて、馴染みにくい感じがあった。だが、これも一つの解釈として呈示された世界として受け取るしかないだろう。
逆にこれらの場面で、松木夫人を演じた吉行和子の魅力には驚いた。彼女がいると、一緒に演じている役者から不自然さが消えるのだ。まるで触媒のよう…。
 
 尾崎翠本人の心の中に映っただろう鳥取の景色の美しい映像に、監督が持つ尾崎翠本人への思いの深さを感じる。

 その思いを知るためにも、来年西荻で上映される 『第七感界彷徨ー尾崎翠を探して』を
是非、見に行こうと思っている。

2006年10月26日
東京都・もりえさんの感想
立ち見も出る盛況でうれしかった〜。
上映前の舞台挨拶もほとんどのキャストの方が
ずらりと前に並んで、豪華〜!
うきうきしてしまった。

『歩行』+『地下室アントンの一夜』+『こほろぎ嬢』
の3作品の合わせ具合がいい感じだった。

オール鳥取ロケで、自然や建造物文化財なども
魅力的で美しいのだった。

そのうえ、ラストである。
そうか、こう来たか。
っていうラストへの流れ方だった。
爽やかな地下室アントンから、
尾崎翠の想いに重ねていく…という感じが、
浜野監督や脚本の山崎さんの読みが、
伝わってくる。
この辺は想定外なシーンだったので、
もう一度フィードバックして味わいたいところ。

私は土田九作の部屋の窓の渋紙色の風呂敷きや、
おいしそうなお萩や、
地下室の扉がキューンと開く音とか
色々満足である。

2006年10月26日
千葉県・更夜さんの感想
 私はこの映画の原作となる尾崎翠の3つの短編、「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」を読んでいないので、原作との比較は出来ない、と先に書いておきます。この映画を観た後、少し調べてその断片を読んだくらいです。この映画を観て思い出したのは1992年泉鏡花の原作を坂東玉三郎が監督した『外科室』です。

 女流幻想文学者として人気のある尾崎翠の本は『第七官界彷徨』しか読んだことがありませんが、これが明治生まれの女性作家の書く物とは思えない幻想文学でした。幻想というのは時にとても歪んでいびつな一面も持ち、それは幻想文学に限らず、SFでも小説でも、いびつな世界というのは有り得ます。そこが文学の面白いところで、宮澤賢治ですら、私はいびつな一面を持っていると思います。

 さて、そういう世界を映像として映画にする場合、奇をてらった映像に凝る場合が多いのに、この映画はその辺の「いびつさ」が見られないのが特徴かもしれません。家には柿の木がある、というナレーションにかぶって柿の実のなる木が出てくるところなど、随分、ストレートな演出だと思いました。特に前半は、観る者に、まるで本を読むように想像させるような、映像の撮り方はしていません。
冒頭、「歩行」の主人公である着物を着た小野町子(石井あす香)が砂丘を歩くロングショットに続いて、最後に出てくる小野町子という少女が成長した洋装の「こほろぎ嬢」が同じ空間の砂丘を歩いている・・・・というロングショットが交互に出てきても、そこに何も「奇をてらったもの」見られないのです。

 この映画は、尾崎翠の故郷である鳥取県の支援を受け、鳥取で撮影されました。
大正の時代の建物、家具、調度品など全て作ったものではなく、重要文化財に指定されているような本物を使ったそうです。
本物志向ということではペ・ヨンジュンが主演した韓国映画『スキャンダル』に次々と惜しみなく出てくる国宝級の壷や絵画、器、建物などの、迫力に比べると、やはり、力みを感じさせないような映像、落ち着きのある映像を目指しているように思います。

 しかし、脚本、台詞に関するとなると登場人物たちは、皆唐突で、現代からするととても不思議な演劇的といえるような言葉遣いをします。身内なのにフルネームで呼んでいたり、理由理屈なく、詩人は義兄である動物学者、松木博士を敵視する。理由理屈なく、というよりも不思議な論理で詩人は動物博士を嫌うのです。
そんな相対する2人にはさまれても飄々としている空気のような松木夫人(吉行和子)

そんなところにおはぎを持っていく、小野町子。この小野町子は、自信のない少女です。

詩人と同じく外に出ることを嫌い、心理学者に本を朗読して、といわれてもどきどきして戸惑ってしまうような内気というより自信のない少女。

 しかし、それが、こほろぎ嬢(鳥居しのぶ)に突然といっていいほど、成長した姿になるとそこにあるのは自信と落ち着きのある女性詩人なのです。
図書室で、詩人、ウィリアム・シャープ氏とマクロード嬢についての物語を思うとき、その思いは確信のように思えます。
また、地下に降りるとパンを売っており、ひとりの女性が勉強をしている。それを、密かに独学するのは産婆学である、と確信を持つ。
その産婆学を独学する姿を見つめる、すでに独立した女性であるこほろぎ嬢の立ち姿は、見下ろすようであり、見惚れているようでもありました。こほろぎ嬢は映画の中では、言葉を発することがありません。全てがこほろぎ嬢の頭の中の宇宙なのです。
それを、地下室というものになぞらえた所が、純日本風であり、かつ西洋風でもある、和洋折衷のような幻想的な後半の世界の暗さと、前半のふらふらとした感じとの上手い対比になっていたと思います。

 浜野監督は、尾崎翠という作家をもっともっと世間に知らしめたい、という希望がとても強く、観客に媚びるような説明的な映画は作らない、また製作スポンサーに左右されるような映画は作りたくないという強い気持から自主制作映画という形になったのだそうです。
それ以前に、監督は尾崎翠の心酔者であり、それ故、この映画を観る者もまた心酔者でないと、共有できない壁のようなものが出てくるのは仕方ないのですが、前にも書いたようにひとりよがりの奇をてらった映像でなくストレートに映像を出しているところ、ありがちな流れにはなっていない力強さと同時に節度ある謙虚さも感じます。

「更夜飯店」
http://www.ka3.koalanet.ne.jp/~kawaseki/10.2006.html#kohorogijyou

2006年10月22日
岡山県・hanami73さんの感想
『こほろぎ嬢』鳥取県先行ロードショーを観て参りました。これが県の支援事業だなんて・・・、やっぱり良い国だ鳥取、もう住む!

生監督に会えるとは!即日計画人間は存じませんで、感動ひとしお。艶があって、かっこいい人とは彼女の為にある言葉だ。

『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』を5、6年前に知った当時、その小説を読み漁ったクチです。

私は本を読むと脳内で画像になる、という性質なのですが、余りの違和感のなさに水のやうな飲み心地でございました。

すっかり『歩行』の少女時代帰りしてしまって、(ああ、山陰の湿度や春の日本家屋の中の暗さとかリアルに思い出してしまい)何の臆面も無く自己を表現していた過去の自分に、臆病になってしまった今の自分が出逢ったようで。

...帰途R53号にて、目頭押さえるのに大変な事、ギア・チェンジに難儀したがあ〜。

今社会が、てもちぶさたなオス(成人且つ、健常者)の都合でルールされているなれば、オンナ・コドモに勝手が悪いのは、至極当然の事です。(イタい目に会ったら懲りるのよ私)

他の誰でも無い私本人に正面向かって、「拙くてよいから、封じた感情を解放しなさい」と肩をポンッされた心持ち。

浜野佐知監督にだろうか、尾崎翠にだろうか。

私も『地下室アントン』に行きたい。

労災も厚生年金もない二重人格ラクダ様は気の毒で載せられませんでした。

「地元力向上委員会」
http://plaza.rakuten.co.jp/hanami73/

2006年10月16日
鳥取県・拓也さんの感想
尾崎翠原作、浜野佐知監督の映画である。

傑作!

この映画には二つの側面がある。

側面その1
映画「こほろぎ嬢」は、100年早く生まれすぎた鬼才(と言っていいのか?)尾崎翠の小説「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」をいささか居心地悪くつなげた作品である。
複数の小説を1本の映画にまとめたものと言えば、レイモンド・カーヴァー原作、ロバート・アルトマン監督の「ショートカッツ」を思い出す。あれは登場人物が本来共通しないのでやはり居心地の悪い作品なのだが、こちらは、どうも登場人物に共通性があるのにもかかわらず居心地が悪い。
居心地の悪さは狙ったもののようだ。原作はもっとそれぞれ関連性も深く、完結感もある。
そもそも誰にでも分かる作品ではない。
クシシュトフ・キェシロフスキとか、アンドレイ・タルコフスキーとか、テオ・アンゲロプロスとか、ビクトル・エリセとか、そういう監督の作品を一度でも見たことがなければ相当戸惑うのではなかろうか。
キェシロフスキ・ファンの私にはとても興味深い作品だった。おそらく尾崎翠の作品内の文章をほとんど脚本に生かしているのだろうが、そもそもの象徴主義的映像を象徴主義的文章に上手くマッチさせている。
また、非常にシリアスな会話であり映像であるのにコメディのように笑いがこみ上げてくる。
ちょっと変わった人たちがちょっと変わった会話ばかりしているのだが、その言葉のひとつひとつがずいぶん独創的に世界の断面を切り開いて見せつけている。それが見る人のもやもやとした心を開き、涼風にさらしてくれるような爽やかさがある。

側面その2
これは、鳥取県とか鳥取県民とかが大いに協力して成立した作品である。
ロケはすべて鳥取県内。建物内の撮影も、県内の建物に小道具とかを持ち込んで撮っているようだ。
尾崎翠が過ごした100年前の時代設定なのに、映像を見ているとほとんど現代を連想させるものは写らない。ドアップが多いとはいえ、鳥取もたいしたもんだ。
ただし、映画では環境音を全く録らず、ほぼすべてアテレコと効果音かなんかで音を入れている。これは、動物学実験室の玄関のシーンは旧国道29号に面していて車の音が入るし、仁風閣の昼の撮影では必ず隣の鳥取西高の吹奏楽の練習の音が入るからだ。
それはともかく、この映画の撮影に使われた場所をめぐる「こほろぎ嬢ロケ地ツアー」なんてやったら、自然好き、時代的建築好きに相当受けるんじゃなかろうか。ぜひツアコンをやりたいものだ。

浜野佐知監督が来てらして、上映前にあいさつされ、上映後はサインをされていたので、私もしていただいた。
私の名前も書いていただけるとのことで、名前を聴かれて「たくや」と答えて、「手偏に石」と思った瞬間「ひょっとしてこれ?」とその字を書かれた。「也」の方も「何円也」の「なり」って言おうとしたら、もう書いている。心が読めるのか?そんなことができてもおかしくないような、感受性の強そうな方だった。

鳥取県が協力したので鳥取先行上映のようで、これから全国で放映されるかもしれない。上記の「難解系」監督が好きな方にはぜひ見て欲しい。赤い表紙の漫画(1,000円)が売ってあったらそれも買うべし。同じものを全く違う世界観で描いてあって、「なるほどこれも世界の裏表」と納得できる。

2006年10月15日
千葉県・ peterpan さんの感想
尾崎翠と出会ったのは、30年ほど前のこと。当時は、尾崎翠の作品がこのように多くの人に愛される日がくるなど想像したことさえなかった。だから、1998年5月14日、浜野佐知監督の『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』が上映されるという新聞記事を読んだときは、本当に驚いた。記事中には、この映画が「支援する会」などに支えられようやくクランクインにこぎつけたとあり、一瞬泣きそうになるくらい感動した。

それから8年――幸せなことに、尾崎翠原作の映画にふたたび出会うことができた。

今回の映画『こほろぎ嬢』は、尾崎翠の代表作「第七官界彷徨」に続く後期の作品「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」の3作を、連作として映画化している。

これら3作品は、私のなかで、互いに近いようで遠く、遠いようで近い関係にあったので、それをどのようにひとつの作品としてつなげ映像化するのか、とても興味があった。

『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』に続き、『こほろぎ嬢』の脚本も担当された山ア邦紀氏は、以前ブログに「尾崎翠と花田清輝があればいい」とお書きになっていたが、今回この映画を観て、氏がいかに尾崎翠の作品を愛されているかがわかったような気がした。

原作をないがしろにすることなく、また単に原作をなぞるのではない絶妙なストーリー展開、会話の妙は、尾崎翠作品に対する繊細な読み、慎重な心づかいなくしては生まれない。

映画『こほろぎ嬢』では、こほろぎ嬢の想いに応えるようにフィオナ・マクロードがあらわれ、二人が出会うシーンが新たに加えられている。それはまるで、執筆当時の尾崎翠が叶わぬと知りつつ求めていた姿を具現したかのようだった。

私は、小説「こほろぎ嬢」の最後で、こほろぎ嬢がマクロード嬢に語りかける言葉に、尾崎翠の悲痛な叫びのようなものを聞いてしまう。そういう意味でも、この映画のゆくえが気になっていたのだが、映像が可能にしたこの出会いは、昭和7年の尾崎翠にさしのべられたあたたかな救いの手のように私には感じられた。

映画のラストについては賛否両論かもしれないが、私自身は、「地下室アントンの一夜」の先にひろがる世界として納得できた。満州事変勃発後の不安な時代、尾崎翠に心身の健康と経済的な後ろ楯だけでもあったら、そして尾崎翠がもう一歩突き抜けたら、このように確信をもって描いていたかもしれない、と思えたのだ。

映画『こほろぎ嬢』は、尾崎翠の作品にとらわれすぎることなく、独自の表現世界を繰り広げ、時空を超えて去っていった。胸に響くひとつの言葉を、最後の画面に残して――。

2006年10月14日
鳥取県・渦マキさんの感想
 時間が経てば経つほど説明がつかなくなるし説明すればするほど自分をさらけ出してしまいそう、そんな「こほろぎ嬢」でございました。

 体にいいとか栄養があるとかそういう食べ物があるように、そういう映画もあるようです。(例えばデトックスできる映画。めちゃめちゃ共感して脳にたまった毒が目から出てくるようなの)「タナカヒロシのすべて」なんかはそうです。以前「とうふみたい」と書きましたが良質のたんぱく質で、是非摂取なさいと誰にでもおすすめしちゃう映画。

 でもこの映画は、体にはそう必要でない栄養素だけれど食べるとジーンとしみわたる、好きな食べ物。箱をもっただけで幸せになるクッキーとか飲み込むと体中がコーティングされてしまいそうなチョコケーキとか(アレですよ・笑)そういう映画じゃないかなと。食べなくても死なないけれどでも食べられなくなったら私、きっと、幸せじゃない。分かってくれるだろう人にだけ、小さな声でおすすめする映画。

 人によってはどうでもいいもので、その人は別にそれがなくても不幸じゃないし寂しくもない。そういう人には全く意味がないかもしれません。

 誰かにとってはとても意味があって、別の誰かにとっては全く意味のないもの。古本とか、写真とか、音楽とか、石ころとか、思想とか、神(といわれるもの)とか、いろいろありますよね。子供の毛布とかさ(笑)それが「宝物」の条件だと常々思ってるのです。そういう性質の映画です。だからこの映画は「誰かの」(例えば私の)宝物になり得る。(もっと時間が経たないと分からないのですけど)

 映画に行く前、おおちだに公園でお昼を食べまして、その時前を通ったグランドアパートが映画に登場してました。ぐっと沸く親近感。私がいちばん楽しみにしていた、三洋電機にある農業大学校の
建物の中が見られなかったのが残念でした。子供の頃から前を通るたび「あの中はどうなっているのか」とずいぶん思いを馳せたもので、今回!とうとう!と思ってたらやはり見られなかった…中はたいした事がないのでしょうか。

 願わくば、鳥取で、とか、鳥取の、とかいうことは抜きにして愛してくれる人のもとをたくさん訪れて、たくさん愛し合ってきてほしい、そんな映画ですよ。思い入れたっぷりでしたか?そりゃそうです。文藝ガーリッシュですから!!