海外浜野組

カナダ・モントリオール(岡部朋子)
2002年 モントリオール世界映画祭を終えて
今年も恒例の世界映画祭(8月22日から9月2日まで)が終わりました。
今回偶然に出会った浜野監督と脚本の山崎氏。おかげで楽しい想い出になりました。

終わってみれば、やはり昔演劇をしていたときのように「ハレ(祭り)」の後には 鬱」がやってきます。モントリオールの夏もこれと同じで、まるで生き急ぐように短い夏を楽しみます。長い冬の「鬱」を払うように。

3年前からこちらの映画祭で、ボランティアとして通訳その他のお手伝いをしています。
監督さんたちの舞台挨拶から上映後の質疑応答、雑誌の取材インタビューやTV、ラジオ出演、パネルディスカッション等の通訳を努めたり、または空港の送り迎え、街の観光案内お世話係まで、ありとあらゆることをします。このボランティアをやってみて、人のために役に立てるというのは非常に満足感があることに気づきました。まして自分の好きな「映画」の分野で日本とカナダとの間での文化の架け橋になれるのですから、これほど楽しいことはありません。同じ「社会への恩返し」でも、自分がやって楽しいからこそ夢中になれます。ついでの話ですが、この話題になるとカナダ人が目を輝かせて皆「素晴らしい。」とほめてくれるので嬉しいです。

「百合祭」上映の様子
「百合祭」は合計4回の上映がありました。そのうち、3回の舞台挨拶の通訳を担当し、2回は上映後の観客の感想を通訳しました。

「百合祭」の観客の反応をみて、浜野監督と山崎氏は日本人とカナダ人とは映画鑑賞の態度が全然違うと言われました。以前にお会いした監督たちも確かそう言ってました。なぜ、どうして違うのかと興味が湧き、少し考えてみました。おそらくこれは、映画に関してだけではなく生きる姿勢が違うことにあるのではないでしょうか。日本とカナダでどこが違うのか、もう少し具体的に言うと、人生に何を期待しているかが基本的に違うのです。以下は監督さんと脚本家から聞いた話もまぜての私の個人的見解です。

まず上映側の姿勢が違う。
日本では、「老人のセックスを描いた映画なんて。」という決めつけがまず先に立つそうです。なので「百合祭」の上映の機会がまずない。頭からとにかく駄目と決論づける。「さしさわりがある。」という分かったようなわからないような言葉で言い訳する。言われたほうもたいがいそれで納得したような気になります。何事も「先入観」で判断する。市民会館のような場所で上映するのも、役所ではまず却下。「老人のセックスなんてとんでもない。」至極、建前、評判が大事。あたりさわりのない映画が一番、市民の「文化」への貢献としてよろしい。うわべのきれいごとが大事。

こちらでは「いい映画」を上映していこうという意欲が強いです。カナダ政府もケベック州政府も映画のプロジェクトを援助してます。「いい映画」とは観るひとに「いい人生体験」をさせてくれるものです。

一般的にいって、映画というのは、芸術文化の媒体のなかでも国境を超えやすいものではないでしょうか。いいストーリーの映画というのはどこの国が舞台であっても観客に理解されるということです。まるでその国で生活しているようにローカルの人達のなかに入り込んで「一時体験」できるというのが映画の大きな魅力だと思います。「映画を観ることで世界旅行をしている。」という言葉はあながち嘘ではありません。そこには、どの国の映画であれ、自分の体験として楽しむ姿勢があります。
日本での観客の態度は周囲の反応を見てからしか笑わない。誰も自分から真っ先に笑おうとはしない。
だから「百合祭」でも笑いも出ないしシーンとしている。上映が終わってから監督に声をかけるひともいない。自己責任で映画を鑑賞しない。

こちらの観客は非常に真剣です。正確に映画を理解しているし、反応も非常に素直で個人的。映画を個人のものとして評価します。観客の層も、たとえば私のいる金融界を含めどこのオフィスでも、ビジネスマン、ウーマン共にあらゆる層の人が映画祭の間、休みをとって何本も映画を観ます。毎年この映画祭を心待ちにしている人が多い。

舞台上での監督への質問も的確だし、通訳していてとてもやりがいがあります。個人の価値観が確立されているので、いい映画には拍手が起こるけれど、つまらないと途中でたくさんの人が席を立ちます。本音と建前の区別はなく、映画は自分個人の楽しみ。面白いと思ったら誰にも遠慮せず大声で笑います。逆に、映画が自分の期待していたものと違っていれば、これもまた遠慮無く席をたちます。

さて、「百合祭」に話を戻します。

三百人程度入る劇場で、終わってから何十人もの人が列を作って 自分の順番を待ちながら、浜野監督や脚本の山崎氏に声をかけていきます。それぞれ思い思いにひとこと「ありがとう」「素晴らしい映画だ」「勇気が出た」「これからもいい映画を作り続けて欲しい。」「いい映画をありがとう。」
「これからも勇敢にいろいろなテーマに挑戦してください。」「次回作を楽しみにしています。」
と監督はもちろんのこと、私まで目をじっとみながらぎゅっと力強く握手していきます。ひとことでもいい、自分のことばで感謝を伝えたい。そのことがはっきり伝わってきます。他の誰が何と言おうと関係ない。自分と監督との対話が大事。それが基本のマナーです。ある老婦人が涙を流しながら、監督に「良かった、本当に素晴らしかった。おかげで生きていく勇気がでてきた。」と言ったときには、そばで訳している私もついうるうると涙してしまいました。彼女に限らず見終わって感激して泣いている人を何人か見受けました。彼女たちは涙を見せても決して恥だとは思っていません。

同時期に上映された他の邦画については残念ながら上映途中で帰った人も多くいたし、終わってからの拍手もなかったものも多くありました。「百合祭」には拍手も笑いもいっぱいありました。回を重ねるにつれて口コミで観客はどんどん増えていきました。映画にかける宣伝費の大きさに左右されるのではなく、純粋にいい映画を評価する観客の姿勢はやはり評価に値すると思います。

前述したように、人生に前向きに期待しているカナダ人は男も女も最後の瞬間まで積極的に自分らしく人生を楽しもうとしています。ですから本音と建前の区別はありません。それから、モントリオールでは男女でこの映画の評価が分かれるということはなかったです。中年の男性からも「いい映画だ」という声が多かった。男性の映画人からも強い関心がありました。むしろ、日本でのように男女で反応がはっきり違うということの方が私には異様に思われます。

カナダと日本の人の映画鑑賞の姿勢の違いは、やはり生きる姿勢にあると思います。カナダ人は自分の行動に自己責任意識をはっきりと持ち、それに対して説明責任を負っていて、だからはっきりと相手に意見を表示をするのが礼儀でありまた義務でもあると思っています。それが果たせない個人は尊敬されません。そういう生き方をしてこそ人生がエンジョイできるし、また人生を楽しくするのは自分の責任だということです。

「ケベック州在住映画およびテレビ業界人女性の会」
主催のパネルディスカッション
これには大変刺激を受けました。
私もささやかな演出として浜野監督とお揃い?になるようにサングラスで登場しました。

世界各国から参加の女性監督達がそれぞれ監督になるまでの苦労と、なぜ今回上映の映画を撮ったのかを順番に話しました。参加者の出身国はブラジル、ドイツ、イタリア、フランス、カナダ、そして日本。
皆、自分の映画のプロジェクトを実現させるのは並大抵の苦労ではなかったんだと感じさせられました。下積みとしてTV,ドキュメンタリー、コマーシャル等の撮影はもちろん、助監督時代には監督の雑用や洗濯を引き受け、監督になってからも、現場が女性をリーダーとして受け入れないことで何度も衝突したそうです。ここまでくるのには大変な苦労があったのだと感じました。

浜野監督に「大変なんですねえ。」とそう正直に話したら、「あなたのいる金融業界は女性にとって大変じゃないの?」と聞かれ、ふりかえって自分が過去に辛かったことは「忘れている」ことに気づきました。なぜなら、そうしないと今現在が楽しめないから。悲惨な経験を忘れたいというトラウマ症状と同じなのかもしれませんが、辛い過去に囚われていては新しい人生が始まらない。でも思い出してみれば「やっぱり自分もものすごく辛かったんだなあ。」ただ、「辛かった。」と言ってみても誰がなぐさめてくれるわけでもなく、何の足しにもならないのでそれなら「忘れてしまおう。」と。

浜野監督のプロフィールはパネルの参加者や聴衆に強い印象を与えましたが、なかでも映画をつくるのに日本全国の12000名もの女性からのカンパがあってできたという話には思わず驚きの声があがりました。

参加された各国の女性監督たちは魅力的な人ばかりでしたが、キャリアの共通点として、意志を強くもち粘り強く自分のプロジェクトを進めていくという姿勢がありました。それが成功に至るまでの一番の原動力なのだと感じました。それはどこの業界でもおそらく同じでしょう。目標を高く定めて最後まで諦めずにがんばること。聞けば当たり前と思われることですが、華やかに成功しているように見える人でも当事者は単に「自分は当たり前のことをしてきただけ。」と思っていることが多いようです。

ただし、女性監督のもうひとつの共通点は、映画のテーマにリスクを取っていることです。つまり、男性がリスクを恐れて取りあげない題材に敢えて冒険して挑戦していること。人と同じことをやっていてはなかなか認めてもらえませんから、自分でその題材をみつけだしてくること。それがもうひとつの決め手かもしれません。

また話題が横道にそれますが、女性監督たちや主催者の女性は通訳の私にも意見を求めたり、すごく感謝してくれたように思います。女性の方が女性の能力に対し、感謝する気持ちを表し易いのかなとふと感じました。

海外にいて思うこと
最近日本の人と話していると、どうしても日本批判が出てきます。なぜか流行のようです。批判の対象になることは、もうとっくの昔に分析し終わっていて何を今更という風に思いことが多いです。むしろ最近は何とか日本の良さを見つけてまわりに話をするようにしています。批判する人達に対しては「だからあなたはどうするの。」という個人のアクションプランを尋ねてみることにしてますが、そう聞かれて何も答えられない人が多い。ただやみくもに批判するだけで終わり。それでは何も変わりませんね。

日本には素晴らしい自然の恵みとそれに畏敬の念を払う思想や、まわりと平和に協調していこうとする哲学や慣習、無常の人生観、独特の美的感覚などいいところはいっぱいあります。それはきちんと誇りに思っているし、外国に紹介もしていきたい。海外で暮らすことは、日本の良いところと悪いところを発見することでもあります。

私は今までフランス、イギリス、カナダと合計16年近く海外で暮らしてきました。よく日本人から聞かれることに、カナダ人(またはイギリス人等外国人)と日本人とどこが違うのかということがあります。
答えは「本質は同じ人間なので、違いはありません。」喜怒哀楽の感情は当然同じだし、私にはむしろ「外人は違う。」と思い込もうとしている日本人の方が、無神経に人種差別しているように感じます。そういう人は男女差別に関しても非常に無神経ですね。何かにつけて、「先入観」でものごとを判断するからです。自己の責任において自分の価値観で考えて行動しないからです。

このいい例になるこどうか、浜野監督から聞いてびっくりした「女は子供を産んだら人生もう終わりだ。
愛やセックスなんて関係ないはずだ。」という日本男性のひどい決めつけ。これをひどいと言ってみても
これの一体どこが悪いのかわからないという無知無神経さ。「この女性は何を求めているのだろう。」と真剣に理解しようとする男性は少ないように思います。こんなことを書くと男性側から「女性もそうだろう。」と反論がきそうですが、男性の方がより社会的通念を信じて疑わない人が多いように思います。

勿論、外国人でも人種差別、男女差別、階級差別をする人々はたくさんいます。「先入観支配」はどこにでもあります。外国人と日本人との間での優劣など一概にはつけられません。男性は社会的な生き物なのでどうしても「群れたがる」ことに原因があるようですが。

ただ繰り返しになりますが、社会の行動の基本的パターンとして欧米では、自分の行動に自己責任意識をはっきりと持ち、説明責任を負い、かつはっきりと意思表示をするということがあります。そのためには個人の価値観がはっきりしていることが必要です。

「男は黙って………」ということばに代表されるように、日本では意思表示や説明責任を果たす教育を男性は受けてきませんでした。また、女性たち(祖母、母、姉妹、オフィスの女性たち、恋人、妻)が今だに甘やかし続けているので殆ど説明責任を果たさずにきた日本の男性は、欧米社会からみるとなかなか評価されません。欧米の知識人のことばに「日本人女性は素晴らしい人が多いのに、その能力がきちんと評価されていない。」と言うことと裏表ではないでしょうか。もちろん、日本人女性全てが優秀とは言うつもりはありませんが、海外で出会った意志高く頑張っている日本人女性たちは、この点がきちんと実行できているように思います。

私個人のモットーとして、いちばん嫌いなものは「無知」による「無神経」な言動です。それは私が日本の「男尊女卑」という、非合理な「先入観支配」による差別経験者だからだろうし、だからこそせめて自分だけは「無知」で「無神経」な言動をすることがないよう、出来る限りものごとを知る努力を続けています。「先入観」をもたずに自分自身の経験を基にした価値観で判断を下すことが大事だと思うからです。それが自分の義務としての生き方だと思います。そのためには世界を見て、聞いて、知ることが必要で、その好奇心のためのみに今まで海外の暮らしを長くしてきました。世界にはまだまだ私の知らないことがたくさんあります。「知り続ける」努力に終わりはありません。ただし、最近はそろそろ自分のルーツに戻って、今までの経験をもとにして何ができるか試してみたいと思うようになりました。それが何かはわかりませんが、何かできそうな予感がするので楽しみです。

フランス・パリ(林瑞絵)
女性固有の映画は真に存在するのか?
「女性固有の映画は真に存在するのか?」。浜野監督がフランスの女性映画関係者たちにインタビューするため用意された質問だ。もし誰かが私に同じ質問を投げかけたらどうしよう、とてもすっきり答えられはしない。シンプルなだけに難問である。今回、フランスの女性映画をめぐる状況をレポートする浜野監督とご一緒しながら、絶えず私は解けない宿題のようなこの難問に苛まれていた。映画はただ映画としてのみ評価されるべきものだから、女性映画という確固付きの表現を全面に出すのはしっくりこないと思う反面、マッチョな映画界で現実に隅に追いやられて来た女性たちを保護する意味で「女性映画」とラインを引くことはまだまだ有効なのではないかという思いの間で板挟みになっていたのだ。そして現在もまだ、その宿題にすっきりとした答えを見つけられずにいるのだが、フランスの映画人たちとの交流の中で、女性映画という概念が、今後はますます作品における「個性」のひとつとして捉えられていくのだろうという予感はしっかりと感じとった。例えばフェミニズムの運動と密接な関係にあるクレテイユ映画祭のディレクター、ジャッキー・ビュエさんが、「これからは特に世界の様々な女性映画の中のテーマを掘り下げ分析することが重要」と発言されていたり、フェミニズムの運動と全くかけ離れたところで女性に関する新しい映画祭が立ちあげられたりといった具合に。今回の経験を通しフランスに吹き荒れる女性映画の新しい風を一身に浴びることができたのは、大変新鮮な経験だった。

さて私は常々、女性監督によって撮られた映画を語る時に「女性らしい」視点(もしくは「女性による極めて男性的な視点」)ばかりを探してしまう傾向があることに不満を感じていた。映画という全方向に開かれた豊かなものを語るのに、女性性ばかりを物差しに使って語ってしまうのはどこか舌足らずで、暴力的な気さえするからだ。そして女性監督が撮った映画の中に、女性らしい視点が多分に含まれる映画は確かに多く存在するけれど、それは単純にその監督の個性なのだ、と考える方がやはり好きなのだ。なぜなら単純に全ての女性監督が、意識的にせよ無意識的せよ、必ずしも女性であることの影響を負っている作品を撮るだろうかと疑問が残ってしまうのだ。まあ真相は藪の中なのだが…。とはいえ、現実問題、女性監督の作品に現れる女性ならではの視点が、単に監督の個性として語られるようになるまで、日本においてはまだまだ時間がかかるのだろう。フランスの女性監督ジャンヌ・ラブリュンヌ監督は、「芸術家でい続けることだけでも大変なのに、同時に"女性の芸術家"であることまで引き受ける余裕はない。単純に、"芸術家"であることが大事だ」ときっぱりと語って下さったが、いかにも女性が映画界の中心で大手を振って活躍するフランスの監督らしい発言だと、頼もしくそして羨ましく感じた。"芸術家"でい続けることで大変であるのは全く同じはずの浜野監督が、女性映画の後進国日本にいるために、"女性の芸術家"という役割まで積極的に引き受けていらっしゃる現実とをくらべると、やはり日仏間で女性監督を取り囲む環境に歴然とした差があるのは否めない。しかし、それにひるむことなく突き進む意志の人が、浜野監督その人なのだ。パリの浜野監督応援団の一人として、監督のレポートが日本の女性映画をめぐる状況を改善させる起爆剤になることを心より願っている。そしてこれからも、"女性映画とはなんぞや?"という解けない宿題をその混沌のまま受け入れて、頭を悩ませながらも末永くお付き合いしていくくつもりだ。